楊海英先生について

モンゴル自由連盟党は静岡大学教授・楊海英先生の著作・活動を支持します。
楊海英先生は南モンゴル出身、モンゴル名はオーノス・チョクト。日本帰化後の日本名は大野旭。モンゴル人数十万人が中国共産党政府により殺害された文化大革命期の研究で知られ、『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』は司馬遼太郎賞を受賞しました。

楊海英先生の論文「現代中国における少年の洗脳方法」をご紹介いたします

中国の「国境文化」の人類学的研究 に収められました楊海英先生の論文、「現代中国における少年の洗脳方法」をご紹介いたします。画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。 http://lupm.org/japanese/pdf/yo_ronbun.pdf

楊海英先生の2013年文章より

楊海英先生より頂きました、2013年に執筆された原稿のうち3点を紹介させて頂きます。 #gallery-1 { margin: auto; } #gallery-1 .gallery-item { float: left;
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楊海英先生メッセージ「若きモンゴル人に寄せて」

静岡大学教授 楊海英先生

 私たちモンゴル人は世界史に名前を轟かせてきた民族である。13世紀に歴史の表舞台に登場して以来、数々の偉業を成し遂げてきたことは、洋の東西を問わずに高く評価されている。モンゴル人はずっとと歴史の主人公でありつづけてきたが、たまに、ある部族(ayimagh)が他人の支配下に置かれることもあったが、集団的な虐殺の対象にされることは、清朝末期の金丹道事件と文化大革命中のジェノサイドを除いて、ほかになかった。言い換えれば、中国人が主として、私たちをギロチン台に追い込み、血腥い屠刀を振り下ろしてきたのである。この歴史をモンゴル人として生まれてきた者は、今後、未来永劫にわたって、決して忘れてはいけないことである。  文化大革命の場合だと、中国政府の公式見解によると、およそ34万人が逮捕され、27900人が殺害され、12万人に身体障害が残ったという。当時のモンゴル族の人ロは150万人弱だった状況を考えると、一つの家庭から最低一人が捕まえられ、50人にー人が殺されている。ほかにレイプなど性的犯罪が横行し、強制移住と母語の使用禁止が十年間にわたって強制された。これらはすべて政府と中国人すなわち漢民族主義で実施されたものである。過去に「日本に協力した罪」とモンゴル人民共和国との統一合併を目指した歴史が虐殺のロ実とされたのである。  中国人たちはいつももっとも美しい言葉を振りかざして、もっとも残酷で、人類の倫理道徳に反する凄惨な犯罪を私たちモンゴル人やチベット人、それにウイグル人に対しで犯してきた。彼らは非常にうまく歴史を隠蔽してきたので、彼らの人道に対する犯罪はいまだに裁かれていない。モンゴル人大量虐殺事件は、ナチス・ドイツによるホロコースと同じ残酷で、規模も大きい。  モンゴル人が大量虐殺された歴史は、内モンゴル(南モンゴル)に住むすべてのモンゴル人たちの「民族の集団の歴史的記憶」となっている。老若男女を問わずに、この事件を知らぬものはいない。私は20数年間かけで約100人以上の関係者にインタビューしたし、同時に多くの文献史料を集めた。『墓標なき草原』と同時に、資料集を5冊、公開した。すべて中国政府によるモンゴル人ジェノサイドに関する第一次史料である。中国政府の史料で、この事件の性質を証明しなければならない。 文化大革命の真実を分かった方々にお願いしたい。膨大な証言と第一次資料を用いて、国連人権委員会と国際人道法廷に訴えてほしい。つまり、これだけのモンゴル人が血を流したにもかかわらず、中国政府と虐殺を指揮した政府高官や直接殺人を働いた中国人たちはまだ、裁かれていないのである。今日、ある一国内の反人道の犯罪でも国際社会の介入による裁判が行われている。たった四十年前の反人道の犯罪を野放しにしてはいけない。勇気ある方々の登場に強く期侍したいところである。犯罪を裁いて初めて、真相和解が可能である。隠蔽し、歪曲するだけでは、和解は不可能だ。  モンゴル人は「古くから中国の統一された、多民族国家の一員」ではない。第二次世界大戦のあとに、秘密に結ばれた『ヤルタ協定』が私たちの意思に反して、私たちを中国人に売り渡したに過ぎない。今日、モンゴル人たちが複数の国に分かれて住んでいても、お互いの運命に注視しなければ、またお互いに団結しなければ、常に他人に分割統治される危険性がある。自らの運命を変えるためにも、歴史の真相把握から始めよう。


知られざる南モンゴルの惨状

南モンゴルの由来  中国共産党に弾圧されているのはチベットやウイグルだけではない。南モンゴルでも全く同じなのだ。その南モンゴルでは、伝統や文化、経済、人権、果ては環境までもが破壊されている。  そもそも南モンゴルというのはどこであろうか。現在のモンゴル国の南の一部であることを地図上から簡単に分かる。(地図1)しかし、モンゴルの一部であるはずの南モンゴルがなぜ中国の「不可分な(中国政府の言い方)」一部になってしまったのか。南モンゴルは一体どのようにして中国に乗っ取られたか。いま中国で「内モンゴル自治区」と呼称されている地域を、我々南モンゴル人は、『南モンゴル』と呼ぶ。  当時の大清国の滅びる一年前の1911年にモンゴル国が独立を宣言してから、1949年までの間、南モンゴルでは独立運動が活発に行われていた。中華民国の軍閥、中国国民党、そして現在の中国共産党を相手に、懸命に戦った。当然、独立運動をしている間には武力衝突も避けられないため、多くの人が血を流したのであった。  だがその頃よりも、南モンゴルが「内モンゴル自治区」(1947年成立し、1949年に正式に中国に組み込まれた)となって中国の一部に組み込まれてから現在に至るまでの間の方が、さらに多くの人が亡くなっている。1966年から1976年の間には文化大革命があり、すさまじい数のモンゴル人が犠牲になった。  南モンゴルの政府高官や兵士、知識人そして一般人まで、大勢の人たちが次々に殺されていったのだ。当時の南モンゴルのモンゴル人の人口は150万人しかいなかった。その内、100万人が逮捕され、死傷者は数十万人と言われる。残虐行為は想像を絶するもので、女子供を吊るし上げて拷問したり、舌に針を通したり、素足で火の上を躍らせたり、強姦し、陰部を串刺したりペンチで歯を抜いたりしたりした。拷問の方法はなんと170種類にのぼる。人民解放軍の劉小隊長の伝記には「モンゴル人たちが全員死んでも問題ない。わが国の南方にはたくさん人間がいる。モンゴル人たちの生皮を剥ごう」とまで書かれていた。  北京の中国政府は、モンゴル人の犠牲者の数を約2万7000人と認めているのだが、南モンゴルで独自に調査した結果と、アメリカの人類学者によるサンプル調査によると、この間に少なくとも10万人ものモンゴル人が亡くなったという結果が出ているのだ。  文化大革命でモンゴル人が殺されなくてはいけなかった理由は何もない。1960年代だから、中国の一部に組み込まれてから20年も経っていた時期だった。独立運動をしていたわけでもない。ただ一つの理由は、彼らはモンゴル人だったからだ。中国政府にとって、かつて独立運動をしており、日本とも協力していたモンゴル人達は、いつまでも不信と不安が残ってたまらない存在だった。  今回の記事では、こうした歴史的経緯は置いて、今現在の南モンゴルの知られざる実態を環境、経済、文化教育及び人権のいくつかの部分に分けて紹介する。一人でも多くの日本人に知ってもらいたい。南モンゴルの真実を少しでも知ることできたならば、今日の中国の日本に対する姿勢、あるいは、東南アジア、南アジア、中央アジアへの拡張の本心がもう少し分かりやすくなるのではという気持ちをこめて。


「連携こそ、我々を最終の勝利に導く」 世界ウイグル会議に寄せたダイチン幹事長メッセージ

1、我々は、南モンゴル地域の独立を最終的な主要な目標としております。当然、これは人類の普遍的な価値観、自由、人権、および民主主義の法の支配、並びに国際法の枠組みの中で討論することになることでしょう。歴史の教訓は我々に自決及び独立の道しかないということを教えてくれました。即ち、たとえどんな社会にしても我々が自分達の自決権を勝ち取って、独立を果たさない限り、我々の真の自由、人権、平等などが保障されないということです。もし皆様の不屈の努力によって大陸が民主化を成し遂げたとしたら、そしてまた、中国人が100年前と違って我々を虐殺しないと誓ったとしたなら、そのとき、我々はお互いに平等の立場に立ち、自分達南モンゴルの未来と運命を描くことが出来るでしょう。これはもちろん、南モンゴル人を含めた南モンゴルの2300万人のすべての人たちのことを言っています。この2300万の国民が自分達の運命を自分達で決めるようにしなくてはなりません。この際には、当然国際法、条約などに従った措置が行われなければなりません。もちろん住民と客の区別、つまり元々住んでいたモンゴル民族と移住してきた漢民族の区別もはっきりとしないといけません。  中国共産党が政権をとってから、南モンゴル地域のモンゴル人は、政府による絶え間ない弾圧の中で、行く道を失い自殺させられ、虐殺され、また洗脳されてきました。我々の祖国が侵略されてから、文化が抹殺され、天然資源が略奪され、環境が破壊されし続けてきましたし、これらは深刻化する一方です。1958年、我々の南モンゴルが『模範自治区』とされて以来長年、我々南モンゴル人を実験台にして得られた民族浄化政策の手法がウイグル人、チベット人に対しても残酷に使われてきました。90年代になって、この政策は香港へ、さらに新しい世紀に入ってからは、この政策は台湾へも使われ始めたのでした。もし、何らかの国際的な制裁がなければ、中国のこの拡張的な侵略主義がアジア全体、あるいは全世界中に燃え広がり、延焼していくでしょう。   2、我々は、ウイグル人(東トルキスタン)の求める理念及び選択を尊敬し、応援します。我々は常にチベットの人々の闘いを応援してきました。ウイグル人も、中国に弾圧されている同じ運命を持つ同胞であると認識しています。   3、今や全世界に広まった、中国の民主化を求める中国人団体、組織、専門家や学者、そして個人の闘いを我々は心から応援します。そして大陸の民主化のために連携をとっていくことが望ましいと認識しております。ただしそれは、相互の寛容、相互の理解と尊重という理念の下で成り立つことです。我々は大陸の民主化、自由、人権の尊重、平等などを願っていますし、期待しています。同時に、我々は中国人のショービニズム、あるいは極端な大統一主義を排除しないといけません。  我々は、海外で、大陸の民主化のため戦っている多くの人々を誇りに思い、彼らを賞賛、支持しなければなりません。特に自分達の信念を貫き、中国共産党による工作、あるいは買収などのあらゆる手段に負けていない戦士達を心より尊敬しますし、彼らと協力したいと思っております。  我々がここで一つだけ提案したいことがあります。今日の大陸の多くの問題点のキーポイントは、単なるシステムの問題だけでなく、もちろん単なる共産党政権の問題だけでもありません。文化の深層で起きている衝突という観点からも問題を検討しないといけません。例えば、我々南モンゴルが直面している様々な問題は、1949年以後だけに起きたものではないのです。その以前にも同じ性質の問題が起こっていましたし、それが1949年以後も起こっているというのが正確なところです。この問題を検討すること自体が、大陸の民主化を一日も早く実現するために大きく機能するであろうと思われます。   …

楊海英「生きているモンゴル人と死んだラクダとの会話」

楊海英先生の手による寓話的な作品。どうぞご覧下さい。 …

「共和国」と「民族自治」

 「中国」が建国されてから丁度100年が過ぎた。100年前に「中国」は存在せず、シナはマンジュの植民地であった。  かつて「中国」には「五大民族」という言葉があったそうだが、いつ頃の事なのかは明らかではない。ある人は「五大民族」とは「清朝の維新運動」の頃の「五族協和」、あるいは孫文が提唱した「五族共和」から来る概念であり、中華民国が清朝支配領域を継承することを視野に入れたスローガンであると説明している。しかし、いつ頃、誰が、どのような歴史的文脈で、また、いかなる目的で提唱したのかは不明である。  清朝末期の腐敗した官僚による「独裁政権」が、「人権弾圧」や「民族差別」による「非人道的」支配を行っていたため、「国民」の不満が高まり、人々が「自由・民主・平等」を政府に要求したことを「清朝の維新運動」と言うそうだが、孫文が提唱した「五族共和」が、そうした文脈とは全く関係のない別の意図から出た言葉であることは明らかである。  1906年の「中国同盟会軍政府宣言」の中で、孫文は「駆除韃虜、回復中華、建立民国、平均地権」の四箇条を提唱する。のちに最初の二箇条は「民族主義」、後ろの二箇条はそれぞれ「民権主義」、「民生主義」と言い換えられ、「三民主義」として広く知られるようになる。  「韃虜」というのは本来、シナ人がモンゴル人を指して呼んでいた言葉であるが、ここではマンジュ人を指している。すなわち、かつてモンゴルを追い出して明朝を建てたように、マンジュを追い出してシナ人の民族国家を設立しようと呼びかけているのであり、そこには「韃虜」との「共和」も「協和」も入る余地が全くないのである。  ところが、辛亥革命が成功して1912年1 月1日に中華民国が建国されると、孫文は一転して「五族共和」を唱え始める。この「五族」は漢(シナ人)、満(マンジュ人)、蒙(モンゴル人)、回(ウイグル人)、蔵(チベット人)を指しているが、この五つの民族はいずれも独自の歴史、国家、領土、言語、文字を持つ別々の存在である。1935年当時の中華民国の領域内には約400の「少数民族」がいたという調査報告もあるそうだが、政府が公式に認めていたのは、この「五族」だけであった。  当初は追い出すべき対象であった「韃虜」達との「共和」とは、中華思想を背景とする侵略主義に他ならない。「五族共和」とは、モンゴル、マンジュ、ウイグル、チベット等の隣国に対する軍事占領と同化政策を推進するための思想であり、モンゴル人、マンジュ人、ウイグル人、チベット人の側から見れば「国父」孫文は中華帝国主義を掲げる侵略者なのである。  この100年間に「共和」されたモンゴル、マンジュ、ウイグル、チベットの領域は各省に分割され、マンジュ以外の三民族においては、それぞれ100万人前後の人々が虐殺されたとされている。「被共和者」には名ばかりの「地域自治」が与えられたが、こうした「自治区」では、「共和者」であるシナ人達がやりたい放題であり、恒常的に環境破壊、資源略奪、人権弾圧が行われている。 …