楊海英先生について

モンゴル自由連盟党は静岡大学教授・楊海英先生の著作・活動を支持します。
楊海英先生は南モンゴル出身、モンゴル名はオーノス・チョクト。日本帰化後の日本名は大野旭。モンゴル人数十万人が中国共産党政府により殺害された文化大革命期の研究で知られ、『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』は司馬遼太郎賞を受賞しました。

楊海英先生『墓標なき草原』中国語版序文のご紹介

楊海英先生の名著、『墓標なき草原』の中国語版が出版されることになりました。以下は、王力雄先生による序文です。ぜひお読みください。     中国人(漢人)の必読書-『墓標なき草原』中国語版序文 王力雄(劉燕子訳)

 議論が中国の民族問題になると、漢人*1 の中でも普遍的価値(自由、民主、人権など)をわきまえている知識人--リベラル派も含む--さえ、少数民族の受難を専制政治の災禍*2 に帰して、漢人が広範囲にわたって民族的な抑圧に関与したことを認めないという、ありきたりの漢民族中心的な観点を有している。その常套的な論法は、漢人も同様に専制政治の被害者であり、各民族の間には対立や憎悪はなく、一心同体で民主主義を実現すれば、全ての問題は自ずから解決するというものである。  しかし、楊海英(モンゴル名、オーノス・チョクト、日本名、大野旭)教授の著書『墓標なき草原-内モンゴルにおける文化大革命の大虐殺の実録-』は、精緻なフィールド・ワーク、考証、多くの体験者の証言により、モンゴル人が受けた被害は、ただ専制政治によるものだけでなく、おびただしい漢人の民衆が政権と一体になり、モンゴル人へのジェノサイドを行使したことを明らかにしている。 …

今年5月、モンゴル国から中国へ南モンゴル人活動家2人が強制送還された件について

今年の5月、モンゴル国が南モンゴル出身の二人の若者(人権活動家Dalaibaatar,Tulguuri)を中国に強制送還した。周知の通り、モンゴル国は天然資源が豊富で、中国の進出が著しい。モンゴルと中国の戦略的なパートナーシップも強化されている中、この強制送還はモンゴル国が、中国主席のモンゴル訪問に対して送った「プレセント」ではないかという見方もある。   この強制送還に対し、海外南モンゴルの一部の団体がモンゴル国大統領、首相あてに出した公開信がこの画像である。大意は以下の通り。  

モンゴル国大統領、首相あての公開信

周知の通り、モンゴルのエルベグドルジ(Elbegdorji)大統領が「みんな一緒になろう!」と世界に散らばっているモンゴル人たちに呼びかけをしました(2011年12月、モンゴル独立宣言100周年の議会での記念演説)。これが、世界中のモンゴル人に感動と希望を与えたのは違いありません。南モンゴルの若者たちも、モンゴル国で学美や働く人たちも増えました。 しかし、最近のモンゴル国で大統領の呼びかけを裏切るようなことが相次いで起こっています。二人の南モンゴル出身の若者を中国に強制送還したことがこれを表しています。 …

南モンゴル人作家・活動家フーチンフー(高玉蓮)女史の中国共産党による逮捕、監禁、拷問、行方不明について

 2010年11月の雪に覆われたある日、内モンゴルの東部にある町通遼市内のある住宅アパートを一人の老人が訪れた。塀の正門をくぐって行ったところ、二人の門衛がやってきて「誰の家に行く?」と尋ねた。老人が「俺の妹の家だ」と応えると門衛は「お前の妹は誰だ」と聞いた。老人は誇らしく「フーチンフーだ」と答えた。フーチンフーだと聞いたとたんに、さらに五、六人の警備員が駆けつけて来て、「フーチンフーには誰も会えない、家へ帰ってくれ」と言われた。一瞬呆然とした老人は、周りに約二十何人もの見張りがいることに気づいた。このフーチンフーはいったいどんな人物か。二十何人もの見張りがいるということはどういうことであろう。その経歴を辿ってみよう。   ハダ・シンナ・フーチンフー、南モンゴルのために活動する3人のリーダー  内モンゴル自治区の有名な民主運動活動家ハダ氏は既に知られている。フーチンフーはこのハダ氏と大学のクラスメイトで、ハダの夫人シンナの三人は親友だった。1981年に南モンゴルで、内モンゴルへ大量の漢人農民を移住させるという中央政府の政策を打ち出した「28号文件」に反対する学生運動に二人とも参加する。卒業後そのまま大学に残って教員になることを決めていたが、これにより阻止される。  大学を卒業後、ハダは内モンゴルの首府フフホト市のある高等学校の教師に、フーチンフーは東部のジリム盟に、それぞれ教育現場の職に就く。  1989年、ハダはフフホトでモンゴル学の専門書店「蒙古学書社」を開く。  フーチンフーもこの頃はジリム盟(今は通遼市)の教育研究所の副主任になる(これは内モンゴル自治区が成立した時から政府機関でモンゴル人に与えられる通例のポストで、正主任は勿論漢人でなければならないとされている)。教育研究所は民族教育機関だが、トップが漢人であるため、ジリム盟の全てのモンゴル学校で漢語(中国語)で授業することを推進しようとしていた。フーチンフーはずっとこのような政策の推進に抵抗し、モンゴル人の子供たち母国語で教育を受けることの重要性を強調し続けた。そして、1990年に、彼女はモンゴル学校教育向けに《作文の書き方》を発表する。この時から彼女の著作と活動には、破壊されつつあるモンゴル伝統文化の保全とモンゴル学校教育に有害な政府の政策を食い止めようとした内容がはっきりと表れてくる。   「南モンゴル民主連盟」の発足と中国共産党による苛烈な弾圧 …