楊海英先生について

モンゴル自由連盟党は静岡大学教授・楊海英先生の著作・活動を支持します。
楊海英先生は南モンゴル出身、モンゴル名はオーノス・チョクト。日本帰化後の日本名は大野旭。モンゴル人数十万人が中国共産党政府により殺害された文化大革命期の研究で知られ、『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』は司馬遼太郎賞を受賞しました。

「共和国」と「民族自治」

 「中国」が建国されてから丁度100年が過ぎた。100年前に「中国」は存在せず、シナはマンジュの植民地であった。  かつて「中国」には「五大民族」という言葉があったそうだが、いつ頃の事なのかは明らかではない。ある人は「五大民族」とは「清朝の維新運動」の頃の「五族協和」、あるいは孫文が提唱した「五族共和」から来る概念であり、中華民国が清朝支配領域を継承することを視野に入れたスローガンであると説明している。しかし、いつ頃、誰が、どのような歴史的文脈で、また、いかなる目的で提唱したのかは不明である。  清朝末期の腐敗した官僚による「独裁政権」が、「人権弾圧」や「民族差別」による「非人道的」支配を行っていたため、「国民」の不満が高まり、人々が「自由・民主・平等」を政府に要求したことを「清朝の維新運動」と言うそうだが、孫文が提唱した「五族共和」が、そうした文脈とは全く関係のない別の意図から出た言葉であることは明らかである。  1906年の「中国同盟会軍政府宣言」の中で、孫文は「駆除韃虜、回復中華、建立民国、平均地権」の四箇条を提唱する。のちに最初の二箇条は「民族主義」、後ろの二箇条はそれぞれ「民権主義」、「民生主義」と言い換えられ、「三民主義」として広く知られるようになる。  「韃虜」というのは本来、シナ人がモンゴル人を指して呼んでいた言葉であるが、ここではマンジュ人を指している。すなわち、かつてモンゴルを追い出して明朝を建てたように、マンジュを追い出してシナ人の民族国家を設立しようと呼びかけているのであり、そこには「韃虜」との「共和」も「協和」も入る余地が全くないのである。  ところが、辛亥革命が成功して1912年1 月1日に中華民国が建国されると、孫文は一転して「五族共和」を唱え始める。この「五族」は漢(シナ人)、満(マンジュ人)、蒙(モンゴル人)、回(ウイグル人)、蔵(チベット人)を指しているが、この五つの民族はいずれも独自の歴史、国家、領土、言語、文字を持つ別々の存在である。1935年当時の中華民国の領域内には約400の「少数民族」がいたという調査報告もあるそうだが、政府が公式に認めていたのは、この「五族」だけであった。  当初は追い出すべき対象であった「韃虜」達との「共和」とは、中華思想を背景とする侵略主義に他ならない。「五族共和」とは、モンゴル、マンジュ、ウイグル、チベット等の隣国に対する軍事占領と同化政策を推進するための思想であり、モンゴル人、マンジュ人、ウイグル人、チベット人の側から見れば「国父」孫文は中華帝国主義を掲げる侵略者なのである。  この100年間に「共和」されたモンゴル、マンジュ、ウイグル、チベットの領域は各省に分割され、マンジュ以外の三民族においては、それぞれ100万人前後の人々が虐殺されたとされている。「被共和者」には名ばかりの「地域自治」が与えられたが、こうした「自治区」では、「共和者」であるシナ人達がやりたい放題であり、恒常的に環境破壊、資源略奪、人権弾圧が行われている。 …