楊海英先生について

モンゴル自由連盟党は静岡大学教授・楊海英先生の著作・活動を支持します。
楊海英先生は南モンゴル出身、モンゴル名はオーノス・チョクト。日本帰化後の日本名は大野旭。モンゴル人数十万人が中国共産党政府により殺害された文化大革命期の研究で知られ、『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』は司馬遼太郎賞を受賞しました。

知られざる南モンゴルの惨状

南モンゴルの由来
 中国共産党に弾圧されているのはチベットやウイグルだけではない。南モンゴルでも全く同じなのだ。その南モンゴルでは、伝統や文化、経済、人権、果ては環境までもが破壊されている。
 そもそも南モンゴルというのはどこであろうか。現在のモンゴル国の南の一部であることを地図上から簡単に分かる。(地図1)しかし、モンゴルの一部であるはずの南モンゴルがなぜ中国の「不可分な(中国政府の言い方)」一部になってしまったのか。南モンゴルは一体どのようにして中国に乗っ取られたか。いま中国で「内モンゴル自治区」と呼称されている地域を、我々南モンゴル人は、『南モンゴル』と呼ぶ。

 当時の大清国の滅びる一年前の1911年にモンゴル国が独立を宣言してから、1949年までの間、南モンゴルでは独立運動が活発に行われていた。中華民国の軍閥、中国国民党、そして現在の中国共産党を相手に、懸命に戦った。当然、独立運動をしている間には武力衝突も避けられないため、多くの人が血を流したのであった。
 だがその頃よりも、南モンゴルが「内モンゴル自治区」(1947年成立し、1949年に正式に中国に組み込まれた)となって中国の一部に組み込まれてから現在に至るまでの間の方が、さらに多くの人が亡くなっている。1966年から1976年の間には文化大革命があり、すさまじい数のモンゴル人が犠牲になった。
 南モンゴルの政府高官や兵士、知識人そして一般人まで、大勢の人たちが次々に殺されていったのだ。当時の南モンゴルのモンゴル人の人口は150万人しかいなかった。その内、100万人が逮捕され、死傷者は数十万人と言われる。残虐行為は想像を絶するもので、女子供を吊るし上げて拷問したり、舌に針を通したり、素足で火の上を躍らせたり、強姦し、陰部を串刺したりペンチで歯を抜いたりしたりした。拷問の方法はなんと170種類にのぼる。人民解放軍の劉小隊長の伝記には「モンゴル人たちが全員死んでも問題ない。わが国の南方にはたくさん人間がいる。モンゴル人たちの生皮を剥ごう」とまで書かれていた。
 北京の中国政府は、モンゴル人の犠牲者の数を約2万7000人と認めているのだが、南モンゴルで独自に調査した結果と、アメリカの人類学者によるサンプル調査によると、この間に少なくとも10万人ものモンゴル人が亡くなったという結果が出ているのだ。
 文化大革命でモンゴル人が殺されなくてはいけなかった理由は何もない。1960年代だから、中国の一部に組み込まれてから20年も経っていた時期だった。独立運動をしていたわけでもない。ただ一つの理由は、彼らはモンゴル人だったからだ。中国政府にとって、かつて独立運動をしており、日本とも協力していたモンゴル人達は、いつまでも不信と不安が残ってたまらない存在だった。
 今回の記事では、こうした歴史的経緯は置いて、今現在の南モンゴルの知られざる実態を環境、経済、文化教育及び人権のいくつかの部分に分けて紹介する。一人でも多くの日本人に知ってもらいたい。南モンゴルの真実を少しでも知ることできたならば、今日の中国の日本に対する姿勢、あるいは、東南アジア、南アジア、中央アジアへの拡張の本心がもう少し分かりやすくなるのではという気持ちをこめて。

環境という世界的な問題
 モンゴルといえば草原。草原イコールモンゴル。モンゴル人の生活は、草原から切り離すことは出来ない。これは、草原はモンゴル人の生活基盤だったからだ。モンゴル草原を吹き渡る風や流れる河、それに草一本や砂一粒でもここで暮らし続けてきたモンゴル人の宝であり、モンゴル人が代々行き続けるための生存基盤なのだ。モンゴル人には、祖先から受け取ったこの草原を次世代に継承する責務がある。一度砂漠化された草原は二度と回復できない。
 しかし、中国の侵略から60何年間の短い時期を経て、南モンゴルの環境状態は非常に悪化している。人々が「モンゴル」という言葉で想像するあの緑豊かで広々とした草原は砂漠化して行く一方だった。中国共産党政府は、南モンゴルのこの砂漠化の責任をモンゴル人の放牧にあるとした。即ち、砂漠化の進行は放牧のせいだと主張し、南モンゴルで「放牧禁止」という政策を採っているのだ。だが、これは単なる責任転嫁に過ぎない。実際には農耕と資源採掘と工業化が原因だ。しかも、資源開発による利益は中国人に独占されている。モンゴル人に対し「生態移民」や「放牧禁止」の政策を採りながら、一方で草原で石炭、石油などの乱開発を進めている(写真2)。
 いまや面積が118万㎢である「内モンゴル自治区」の60%が砂漠化していると言われている。

「生態移民」の持つ意味
 モンゴル人の生活するモンゴル高原では、年間平均降水量がわずか300ミリ弱、それに寒冷や強風の気候条件、砂地という条件が加わっている。中国人たちが、南モンゴル地域で畑や水田が作られたことを成功といっているが、それは一時的なものに過ぎない。モンゴル草原は農学的に見ても開墾に耐えられない、非常に砂漠化しやすいところなのだ。だからこそ放牧という、土地にあった知恵が生まれたのだ。
 政府は、モンゴル遊牧民を、漢民族が密集している都市部に移住させる「生態移民」政策を採用しており、17万人ものモンゴル人を草原で続けてきた伝統的放牧生活から強制的にさせられる計画がある。これからもっと増やす計画のようだ。
自分達の生活手段を奪われたモンゴル人達が町に行き何をするのか。家畜を売り、政府の用意してくれた建物に生活することになる。しかし、その建物にただでは住めない。政府からもらったわずかの助成金のほとんどを払って入居するのだ。そして、政府が紹介した乳牛を一、二頭飼って家族の生活を維持する。ほとんどの移民村は、類似した状況にある。

 もともと自分達のふるさとで比較的楽な生活をしていた人たちが、全く違う文化の町に来るのだ。成功する人間はほとんどいない。仕事をはじめ、文化、子供の教育問題などいろいろな解決できない問題が生じてくる。(①強引に牧民を移転させる「生態移民」。②開発が迫り、移転を余儀なくされるモンゴル人家族。③いわゆる移民村の様子。④移住先の職業はない為、貧困にあえぐ)





 中国共産党による六十数年の植民支配の間、政府の打ち出したあらゆる「政策」により、モンゴル人の土地や資源は漢人達に奪われ、モンゴル人学校は廃校され、道徳や価値観、伝統文化は極めて大きな損害を受けた。政府のあらゆる「政策」はモンゴル人の権利を無視し、環境保全に配慮せず、モンゴル草原の砂漠化を進行させた。南モンゴル人達が、この「生態移民」政策により、自分達の土地、経済基盤、そして伝統、文化などすべてを失っていく。「生態移民」政策こそが、中国共産党政府のモンゴル民族を絶滅させる政策だったのだ。

人権なのか、民族差別なのか
 南モンゴルの文化、経済、人権各方面での圧迫は21世紀の現代社会と思えないほど苛烈なものだが、毎日のように起こっている。
 まず、中国当局の政策により、1950年代から今日に至るまで、大量の中国人が南モンゴルに移住してきた。その数なんと1500万とも言われる。いまや「内モンゴル自治区」で80%が中国人、モンゴル人はわずかの17%の絶対的少数民族になってしまったのだ。
 最近、「生態移民」「放牧禁止」などと同じように注目されるのは、中国人の南モンゴルでの乱暴狼藉である。即ち、あらゆる手段を使ってモンゴル人の土地を占用し、抵抗しようとするモンゴル人達を暴力で攻撃するのだ。これは、中国当局、警察、開発業者と暴力団が一緒になって行う。そのため、モンゴル人がいくら攻撃されても社会問題にならないのだ。

 もし逆に、土地などの紛争でモンゴル人たちが中国人たちに怪我をさせたのであれば、少なくとも刑事責任を問われ、罰金あるいは懲役刑を受けるであろう。さらに、そういった事件が少し広がれば、政府から公安・武装警察だけではなく軍まで派遣されるような事案となるだろう。そして、事件を起こしたモンゴル人達は、“民族分裂主義者”とされ、「我々の偉大なる祖国を分裂させようとしている犯罪運動である」と決め付けられことになるのだ。(写真、①②は、オンニュデ旗でモンゴル人達が攻撃され、18人が怪我し、そのうち2人が重傷を負った事件。同じようなことがその二年前と今年も起こった。③は、2013年、西ウジムチン旗、中国人に攻撃され、倒れたモンゴル人。④⑤は、バイリン右旗。土地を無法に奪われ抗議する年寄りのモンゴル人を脅す武装警察と、まるでヤクザのような風貌でモンゴル人を脅かし中国人をかばう警察。⑥フルンボイル旗。こうした狼籍から自分達の土地を守るため抗議活動をするモンゴル人の横断幕。それをエジナー旗の副旗長が自ら引きずりおろそうとする)
 



 

 教育は民族の発展の根本である。しかし、いまや南モンゴルではほとんどの学校は中国語教育である。モンゴル語の小中学校は次々に合併、廃校が進められた。その中でも「チベット・モンゴル医学学校」の校長は精力的に教育に取り組んでいたが、当局が強引に逮捕。本人が身の危険を感じ、モンゴル国に亡命、国連難民高等事務局に難民申請中にもかかわらず、中国の警察がモンゴル国まで赴き校長ら家族3人を逮捕してきたのである。校長は懲役3年となった。


 「南モンゴル民主連盟」会長のハダ氏は1995年12月に逮捕し、「国家分裂罪」、「スパイ」などで懲役15年を言い渡された。2010年の12月10、国際人権デーに釈放されるはずだったが、いまだに行方不明である。


 そのハダ氏の同級生である南モンゴルの作家ホーチンフ女史が、「釈放される日に迎えに行くべき」と自分のミニブログに書いたため、二年以上自宅、ホテルなどで軟禁された。軟禁されているときに警察の暴行を受けた後の写真。


 この南モンゴルこそが、いわゆる「大きい・強い」中国の侵略行為の第一歩になったのである。ウイグル、チベットなどが中国に侵略された事実は国際的にも今や有名だが、最初に侵略されたのは南モンゴルだったのだ。南モンゴルを植民地の実験台にして得た経験を、中国共産党政府はいまウイグル、チベットにに実行している真っ最中であるのだ。

南モンゴル人としての日本への期待
 中国共産党政府は、南モンゴルだけではなく、チベット、ウイグルなどの地域で弾圧、圧迫を続けてきた。中国の異民族に対する干渉、膨張的な政策を直視しないと、やがてこれは日本の危機を招くことになる。事実、尖閣諸島に対する干渉も強まっていることが日本人の皆さんの目にもはっきりと映っているだろう。
 日本政府が経済面で中国との友好関係を必要としていることは、我々も理解している。しかし、経済的利益以上に、人権問題や安全保障問題は重要なはずだ。
 真の民主主義というのは何だろう。正義、道義をなくして民主主義は成り立たない。すべてを数で決まるのは民主主義のすべてではない。自分の家族だけが幸せであればよい、隣の家で殺人事件が起こっても見てみてない振りをするのが真の民主主義ではない。
 敢えて言おう。現在の中国を生み出したのは、日本を含めた、欧米列強である。自分の国の国益だけを考え、弱小国や民族の運命を無視するとしたら、やがてそれが祖国に回ってくるときがくる。
 現在の日本は、世界のあらゆるところで経済的に大変すばらしい貢献をしている。だがそれだけでなく、民主主義の最も基本的、根本的な自由、人権に対しても世界に貢献していただきたい。南モンゴル人として、切に願うところである。