2010年11月の雪に覆われたある日、内モンゴルの東部にある町通遼市内のある住宅アパートを一人の老人が訪れた。塀の正門をくぐって行ったところ、二人の門衛がやってきて「誰の家に行く?」と尋ねた。老人が「俺の妹の家だ」と応えると門衛は「お前の妹は誰だ」と聞いた。老人は誇らしく「フーチンフーだ」と答えた。フーチンフーだと聞いたとたんに、さらに五、六人の警備員が駆けつけて来て、「フーチンフーには誰も会えない、家へ帰ってくれ」と言われた。一瞬呆然とした老人は、周りに約二十何人もの見張りがいることに気づいた。このフーチンフーはいったいどんな人物か。二十何人もの見張りがいるということはどういうことであろう。その経歴を辿ってみよう。
ハダ・シンナ・フーチンフー、南モンゴルのために活動する3人のリーダー
内モンゴル自治区の有名な民主運動活動家ハダ氏は既に知られている。フーチンフーはこのハダ氏と大学のクラスメイトで、ハダの夫人シンナの三人は親友だった。1981年に南モンゴルで、内モンゴルへ大量の漢人農民を移住させるという中央政府の政策を打ち出した「28号文件」に反対する学生運動に二人とも参加する。卒業後そのまま大学に残って教員になることを決めていたが、これにより阻止される。
大学を卒業後、ハダは内モンゴルの首府フフホト市のある高等学校の教師に、フーチンフーは東部のジリム盟に、それぞれ教育現場の職に就く。
1989年、ハダはフフホトでモンゴル学の専門書店「蒙古学書社」を開く。
フーチンフーもこの頃はジリム盟(今は通遼市)の教育研究所の副主任になる(これは内モンゴル自治区が成立した時から政府機関でモンゴル人に与えられる通例のポストで、正主任は勿論漢人でなければならないとされている)。教育研究所は民族教育機関だが、トップが漢人であるため、ジリム盟の全てのモンゴル学校で漢語(中国語)で授業することを推進しようとしていた。フーチンフーはずっとこのような政策の推進に抵抗し、モンゴル人の子供たち母国語で教育を受けることの重要性を強調し続けた。そして、1990年に、彼女はモンゴル学校教育向けに《作文の書き方》を発表する。この時から彼女の著作と活動には、破壊されつつあるモンゴル伝統文化の保全とモンゴル学校教育に有害な政府の政策を食い止めようとした内容がはっきりと表れてくる。
「南モンゴル民主連盟」の発足と中国共産党による苛烈な弾圧
1992年5月、ハダを始めとするモンゴル人の知識人たちはフフホト市内で一堂に集まり、「南モンゴル民主連盟」という組織を発足させ、ハダは主席に就任し、フーチンフーも組織の指導者の一人になる。そして、「南モンゴル民主連盟組織規則」および「南モンゴル民主連盟章程」を起草し、漢族による内モンゴル自治区への植民地化に抵抗して、モンゴル人の民族自決と民主化のために闘争することを宣言した。
1995年12月10日、いわゆる世界人権の日に中国政府は「南モンゴル民主連盟」を「分離活動を行なう非合法組織」とし、その会員たちを逮捕した。逮捕されて拷問受けた人は50人に上り、第二回目の「文化大革命」が発動されるかのようだった。主席のハダは「国家分裂罪」と「スパイの罪」だとされ、徒刑15年間の判決を与えられ、ウラーンハダ市にある内モンゴル第四刑務所に入れられた。
内モンゴル自治区への漢族の大量移民による草原開墾の拡大、地下資源の開発による草原の環境破壊、モンゴル族への産児制限政策をはじめとする人権侵害など、中国共産党政府の内モンゴルで行っている政策の実態を暴き、モンゴル人の伝統文化の保全と発展を求める「南モンゴル民主連盟」は「中華人民共和国憲法」と「民族地域自治法」に保障されている枠内で活動をしていたが、三年間経って挫折した。
通遼市で、フーチンフーも逮捕され、刑務所に入れられた。1992年に、フーチンフーは乳癌で手術を受けたため、右腕がつねに普通の人の手より一回り太く腫れ上がった状態だった。冬の季節で、刑務所の劣悪な条件と寒さに耐えられず、二週間後に体調が崩れ、入院しなければならなくなり市内の病院へうつる。そこで、すでにリューマチを患っていたことが判明する。その治療で服用した薬の影響で今度は高血圧になった。健康状態の悪化とハダと一緒に行った「罪」の証拠が見つからなかったことで釈放されたが、半年以上、毎日のように公安局に呼ばれ尋問された。この時フーチンフーは既に離婚していたため、11歳の息子チェールと二人で暮らしていた。
ハダ獄中時代のフーチンフーの執筆活動、インターネットでの活動
ハダに十五年間の判決が下されたというのは全てのモンゴル人にとってはあまりにも絶望的な知らせであった。当時裁判の傍聴席にいたフーチンフーは「十五年の年月は長いが、中国も民主化が進み、何らかの変化により、ハダも早く釈放されるだろう」と自分を、またハダの奥さんのシンナを慰めるしかなかった。
そして、当局はフーチンフーに対して、ハダとの友人関係を直ちに断絶し、シンナとの往来も中止するように圧迫かけたが、フーチンフーは断った。
皮肉にも、この時からフーチンフーとシンナは運命がほぼ同じくすることになる。フフホト市で、シンナと息子のウィーレス、通遼市でフーチンフーと息子のチェール、それぞれ母子の二人暮らしになる。お互いを励まし合い、子育てこそ二人の唯一の喜びだった。しかし、同年生まれのウィーレスとチェールの運命は全く違ったものになった。チェールは順調に中国内地の名門大学にはいるが、2001年、17才のウィーレスが高校二年生の時、学校の男子生徒と喧嘩したことをきっかけに、「強盗犯」という無実の罪で逮捕され、無惨にも三年間の徒刑を下される。
シンナはフフホトの高等専門学校の教師から免職され、フーチンフーは教育研究所の副主任から普通の研究員に降格させられる。フーチンフーは幸い免職から逃れたが、具体的な仕事の内容は与えられなくなったため、作文を書くことに専念するようになる。そして、モンゴル語の季刊誌「ウニル・ツェツェグ」や「シャラームレン」などに多数の作品を掲載した。
2000年代初頭のインターネットが導入された後、彼女は非常に活動的なブログ作成者になる。彼女は管理者としていくつかのモンゴルのウェブサイトおよびフォーラムに取り組んでいた。主に、「モンゴルゲル」や「エヘ・オルン」といったウェブ組織のメンバたちと一緒に資金を集め、モンゴル学校での貧しい学生を経済的に援助する活動を展開した。2007年までに、赤峰市、通遼市、シリンゴル盟の三つの地域から小学校と中学校を範囲に、家庭が貧しい47名の学生を援助していたが、「エヘ・オルン」は2003~2007年の間に四回、「モンゴルゲル」は2000~2010年の間に六回、それぞれ公安当局に閉鎖された。閉鎖された唯一の理由は「民族主義色彩が濃い」だった。そして、2010年4月18日、「モンゴルゲル」の経営者ソドーは秘密裏に逮捕され、三ヶ月以上行方不明になり、「モンゴルゲル」は完全に閉鎖される。
2007年春、フーチンフーは季刊誌などで公開掲載した作品を整理し、「頑石無言」と「石心樹」の二冊の散文詩集を出版しようとした。旅行随筆や感想文、小さいころの出来事、自然環境などを題にした文章がほとんどで、共産党の神経を尖らせる敏感な政治的問題に触れた内容は一切書かれてないことにも拘わらず、出版は許されなかった。公安局は内モンゴルの全ての出版機関にフーチンフーの本の出版を受け入れないように命令を出していた。そして、中国内地の幾つかの出版社とやり取りして試みたが、やはり阻止された。これは、本の内容がともかく、フーチンフーはどんな内容の本でも出版してはならないということだ。それに、フーチンフーの日常すべての社会的行動は厳しい監視下に置かれていたことになる。
半年経って、ようやく香港のある出版社で出版することが出来たが、まもなく公安局に密告され、アパートの倉庫に置かれた1000冊の散文詩集が三日間も経たずに警察に没収された。出版費用は借金で、約一年間の収入に相当する。フーチンフーは毎日のように通遼市公安局と安全局に行ったが、当局から何の返事もないまま終わった。
また、この年の七月にフーチンフーは外国へ旅行するためにパスポート申請したが、公安当局から拒絶された。「国家の安全利益に害を及ばす可能性がある」という理由で、2007年7月18日から2011年7月26日の間まで出国を禁じられた。
一方、フフホト市のシンナも警察との日々が続いた。私服の警察が常に本屋にやって来て何の理由もなく、多額な書籍や工芸品を略奪し去っていく。この文章の作者は、1998年、学校の夏休みに「蒙古学書社」(商品としてはモンゴル学に関する書籍が主で、モンゴルの模様を印刷したTシャツ、モンゴル語のCDや民族工芸品なども販売する)でアルバイトとしてシンナの手伝いをしていた。ある日、突然私服の四人の男が入ってきて、警察だ!と言い、警察証も見せずに「ここはモンゴル語のCDやカセットテープの販売は禁止だ」と威張って、目にとまったCDやカセッテテープを全部没収すると同時に、店の門前に置いていたスピーカーも、市の「美しい容貌」に「悪く影響」を与えているとの理由で容赦なく奪って行った。後にシンナは何回も戻そうと行ったが無理だった。シンナは「こんなことは一年間に何十回も起こることよ」と、そこで嘆くほかに何も出来なかった。
中国政府の弾圧手法の特徴
中国の「五千年の輝かしい」歴史に「诛连九族」という独特な発明がある。一人が罪を犯せば、すべての親族を連座させて処罰する。中国共産党は南モンゴルを支配下に置いた1947年から始め、1976年までに、その独特な発明をそのまま南モンゴルに持ち込み、「土地改革」「反右派闘争」、それに「文化大革命」などといった絶え間ない「政治運動」が行われ、「犯人」とされたモンゴル人の親族だけではなく、友人や知り合いまで連座させて、大量の虐殺を働いた。南モンゴルの全てのモンゴル人はなんらかの形でその連座処罰を受けた経歴をもつ。そして、いまだにその記憶が深く残っているため、「政治的問題」のある人と親しくなることは一種の恐怖であり、危険さえ伴うことである。
ハダの17才の息子への無実の罪による三年徒刑、シンナの本屋での強盗的な没収、フーチンフーへの出国禁止、出版権の剥奪とその書籍の没収、このいずれにしても、「诛连九族」という歴史的な伝統が、21世紀の内モンゴル自治区のモンゴル人社会対して執行されているのが事実だ。
フーチンフーもシンナも「重大な政治問題」を抱えている「危険人物」だと見なされ、この人たちとの往来によって、自身に危険を及ぼすしかねない、と思う昔の友人や知り合いたちの多くは情けないと思いつつも離れていくしかなかった。だが当然、善悪の別をわきまえる人たちも少なくなかったし、あらゆる方法で助け合い、支えていた。このような過酷な現実を乗り越える力は、獄中にいるハダの堅持し続ける不屈な信念だと、シンナもフーチンフーもそう言う。
ハダ釈放の日、しかし……
時は進み2010年になる。この年の12月10日は、全ての南モンゴル人心中の英雄が釈放され、再び目の前に現れるはずの日だ。中国も経済発展が著しく、常に「法治社会を作り上げた」というスローガンを掲げているため、法律に裁かれた人はまた、法律によって釈放されるだろうとモンゴル人はそれを信じ、ハダの釈放を切望していた。
だが、この年の初めから当局は緊張し始めた。シンナとウィーレスは、4月に一回獄中のハダを見舞うことが出来たが、それ以後は一切会わせてもらえなかった。
2010年11月6日、フーチンフーは自分のブログに、ハダが釈放される日に皆で迎えに行きましょう、との呼びかけを書き込んだが、11月11日に公安局に連行された。この日から、アパートの下に監視の車二台と私服の警察が8人配備され、正式に自宅軟禁された。11月17日にフーチンフーは「自由アジアラジオ」のインタビューを受け、獄中のハダの状況と自分の現状について語った。これによって、携帯電話や固定電話、コンピュータなどが没収され、外部への連絡手段は断ち切られた。
この時から、さらに監視員が20人ぐらいに増え、彼女との面会が許可されるのは二人の姪だけとなった。この文章の最初に書かれた老人と監視人たちの話は、ちょうどこの頃の出来事で、老人は70才、フーチンフーの兄のサインバヤル氏だった。兄は通遼市より遠く離れた農村の農民で、妹が自宅軟禁されたことが一切分からなかった。フーチンフーの交渉によって、妹の家に入ることは許されたが、昼から夕方になる前までと、時間が制限された。
妹の家を離れたサインバヤルもまた公安局に連行される。公安局の局長が、サインバヤルにある文章を見せた。サインバヤルは本を読むの大好きで、多数のモンゴル語の書籍を読んだ人だが、漢語は極簡単な程度しか分からないため、その文章を読めなかった。局長は言った。「これはあなたの妹とその息子が一緒にモンゴル国で、中国に対して行った罪だ」。その量は30ページにも及んだという。そして、兄の立場から妹に対して、「犯罪活動」を中止するよう求められた。
2004年7月、フーチンフーは息子のチェールと一緒に、モンゴル国へ旅行したことがある。僅か一週間の滞在だったたが、彼女が熱望的に憬れ続けた心の故郷だった。目に見えた全てが美しかった。彼女にとった今まで一番幸せな時だっだかもしれない。
この一週間の旅行が、「モンゴル国で、中国に対して行った罪」となり、息子もその「犯罪」に関わったという。まさに、「文化大革命」時代のやり方そのものである。
フーチンフーの軟禁は続いた
2010年12月3日、フフホト市で、シンナとウィーレスが拘束され、「蒙古学書店」も閉鎖された。ウィーレスがしばしば外部へ連絡を取っていたが、シンナの消息は完全に途絶えた。
2010年12月10日、世界中の多くの人々が、ハダの釈放されることに関心をよせ、多くのマスメディアも注目を向けていた。勇気のあるモンゴル人青年たちが、内モンゴル第四刑務所の前にハダを迎えに行き、夕方まで待ち続けたが、ハダは現れなかった。大雪に覆われた一日が静かに終わり、モンゴル人の頭も雪のごとく、真っ白になった。ハダはどこ行ったのか?
2010年12月15日、フーチンフーが軟禁されて一ヶ月、警察が毎日のように家に押し入り、ゴロツキのような言葉ばかりを使い、家の隅まで散らかしっぱなしにして行く。怒りに燃え続けた結果、ついにフーチンフーは脳出血で倒れた。その後病院に移され手術を受けるが、病院には二十何人もの監視がつき包囲した。
2011年1月26日、一月半経って退院する時に公安当局からフーチンフーは言われた。自分の「罪」を認め、反省すると同時に、ハダにもその「罪」を承認させる「思想工作」をし、また、妥協するように手紙を書けば、即座に自由になるが、そうでない場合は長期間の判決を与える、と。フーチンフーは直ちに断り、その病院から連行されて行方不明になった。
この時、ネット上でしばしばハダ一家の家族三人が再会した写真が流れていたが、実際に本人と会った人はその奥さんと息子以外は誰もいなかった。公安当局はハダに「今後、『国家分裂』活動を一切中止するといった内容の誓約書に署名すれば、息子のウィーレスに良い仕事を与え、シンナにも充分な補償をすると同時に『蒙古学書社』も再開できる。また、ハダに大学教授の位を与える」といった提議をしたが一切断られる。ハダは「私は何の罪も犯していない、あなたたちを起訴する」と主張し、かつて抱えていた信念を堅持し続ける。
殴打されたフーチンフーの画像がネットに
ハダの一家も、フーチンフーも行方不明のまま時間が過ぎていった。そして、2011年の9月末頃、顔を殴られたフーチンフーの写真が何枚かネット上で流れた。2011年7月20日付きの写真は殴られた最初の様子で、その後、7月26日と7月30日付けの写真があった。監視役の警察の暴行を受けたことは一目瞭然だ。
暴行を受けて、額が大きく腫れ上がって、目の周りに血が凝って、紫色になっていた。写真は中国の「百度」ネット経由で各地へ流れた。詳しい状況は知られていないが、概ね以下のような経緯であった。
フーチンフーは1月26日に退院する際、そのまま市内のあるホテルへ連行され、ホテルでの軟禁が始まった。そして、そのホテルの住所とフーチンフーの状況を一切漏らしてはならないと固く約束した上で、姪の二人だけの面会が許されたが、毎回面会する時に事前に公安局の局長に報告しなければならなかった。そして、アメリカへ留学している息子のチェールへの電話もまだ、公安局長を通してから繋がる。また姪の二人の面会も、チェールの電話で話をする際にも、常に何人もの警察が側で監視していた。
この暴行について当局の処理としては、暴行を執行した警察官が免職されたと口頭で伝えられただけで済んだ。しかも、その写真を誰かがネット上に流したことは「国家機密」を外部へ漏らしたことになった。姪の二人が毎日のように当局に呼び出され、尋問された。また、フーチンフーの友人シャハールとその息子も容疑者だとされ、三日間に渡って拘禁された。
暴行を受けた写真を流した「罪」で、また処罰をうける。その後軟禁場所が変わり、姪の二人にも合わせてもらえなくなった。それきりに、フーチンフーの一切の消息が消えた。これを聞いたお兄さんのサインバヤルは再び通遼にやってきて妹を探した。姪と一緒に公安局を訪れた。
公安局の局長が一枚の紙をもって「あなたの妹の便りだ、ここに署名をすれば、妹に会わせてやろう」と言った。サインバヤルは妹の顔を見ること以外は何も考えなかった。局長の話を信じ、直ちに署名する。姪が後ろにいたが、それを阻止しようとしている間に署名が済んでしまった。
局長は笑いながら言った。「さぁ、これで、あなたの妹の罪はもう確定できるんだ、皆お家へ帰って連絡を待ってなさい」。それがフーチンフーへの逮捕証だったという。兄弟や家族の誰かが署名すれば、罪が確定され、法的逮捕になるという。
サインバヤルは妹に会わせてもらえるだろうと思ったが、会えなかった上、妹の逮捕を承認したことになってしまった。老人と姪は呆然となった。時は2011年11月15日だった。
ハダ一家の三人とフーチンフーの消息が消えたまま今に至るが、今後はどうなるかは誰も分からないのだ。
国際社会へ:こんなことが許されるのか?
この様なことがこの21世紀に中国では公然と行われている。他の国際社会がこんな国と同様に国交を続けて良いものであろうか? 資本力と良心は両立出来ないのか? その資本力と言うのも、中国全土の土地国営化の時に地主を殺傷し盗み取った土地から獲得した資金である。貿易により、この様な資本力から恩恵を被っている国際社会の倫理が問われる。