楊海英先生について

モンゴル自由連盟党は静岡大学教授・楊海英先生の著作・活動を支持します。
楊海英先生は南モンゴル出身、モンゴル名はオーノス・チョクト。日本帰化後の日本名は大野旭。モンゴル人数十万人が中国共産党政府により殺害された文化大革命期の研究で知られ、『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』は司馬遼太郎賞を受賞しました。

第三回アジアの民主化を促進する東京集会にダイチン代表が参加いたしました

12月2日、アジア民主化促進会議の主催で行われました「第三回アジアの民主化を促進する東京集会」にダイチン代表が参加いたしました。(ダイチン幹事長は近く行われました党の会議で、自由連盟党幹事長から党代表となりました。これについては今後改めてお伝えいたします)
アジアの民主化を促進する東京集会。演説しているのは外交評論家の加瀬英明氏
他、http://freeasia2011.org/20131202/photo/に当日の写真が掲載されております。
 
ダイチン代表演説「我々の共通の憧れである平和な未来のため」

南モンゴル自由民主運動の旗と演説するダイチン代表。

南モンゴル自由民主運動の旗と演説するダイチン代表。

 皆さんこんばんは。ご紹介頂きました、モンゴル自由連盟党のダイチンと申します。
 我々が、昨年「第二回アジアの民主化を促進する東京集会」を開催していたとき、国際社会は我々の会議ではなく、中国の共産党第18回大会に注目していました。そして今年も、国際社会は中国共産党の「中央委員会第三回全体会議」、いわゆる三中全会に注目しています。これはおそらく、中国が変わるかもしれないという期待からなのでしょう。国際社会だけでなく、政治家たち、学者たち、専門家たち、また日本のNHKを含めた大手マスメディアなどは皆、「中国共産党の三中全会」に対して、何かしらの期待、希望を持っていたに違いありません。中国共産党政府がこれらの会議を通して、外交、軍事、国内政策が大きく変わるのではないかと、少しでも改善されるのではないかと。しかし、その結果はどうだったでしょうか?
 「第18回大会」が終わりました、「三中全会」も幕を閉じました。二つの大会から生まれたのは何もなく、ただ習近平と「国家安全委員会」の存在だけでした。また、我々の領空にファシズム・ヒトラー的な戦闘機の飛んでくる数が増えただけでした。そして数日前には、「防空識別圏」の設定の発表がありました。中国共産党政府の言動はまさに、国際社会の希望と期待を裏切るものでした。
 また、日本の企業家達、ヨーロッパ、アメリカの企業家達などは、皆が中国本土に憧れ、経済的な利益ばかり求めて、進出していく一方です。しかし経済利益だけで、国家の安全、領土の主権を守ることができるでしょうかか。
 日本の地震、フィリピンの地震。これらの災害に対し中国政府がどんな行動をとったのか、それを見れば中国の本質がはっきりとわかるはずです。
 2008年、中国共産党政府がオリンピックを開催するため、国際社会に多くの約束をしました。そのとき、世界各国の政治家たちも歓迎的でした。それから5年もたった今日(こんにち)まで、中国共産党政府は自らのした約束を守ってきたのでしょうか。
またさらに、先月12日(11月12日)、中国、ロシア、キューバ、ベトナム、サウジアラビア、アルジェリアなどの人権侵害が問題とされている国々が国連人権理事会の新たな加盟国に選出されました。人権侵害のきわめて多い国が人権理事会に加わるとは、本当に皮肉なことですし、今後多くの問題を引き起こすに違いありません。

演説するダイチン代表。

演説するダイチン代表。

 日本人を含む現代の人類はファシストに直面しているのです。それは、かつてのヒトラーの政権よりもっと凶悪な中国共産党政権です。このことを、私は故郷・南モンゴルを奪われた民族の一人として日本の皆さんに強く訴えたいと思います。アジアの中でも非常に文明的かつ経済大国の日本ですが、現在の日本は自分の国を自分の力で守れる軍事力がありますか。また、なかったとしたら、これから国防力を備えるための憲法がありますか。現在の9条が、日本を守ることが出来るのですか。答えは、もちろんNOです。21世紀の今、東アジア情勢がどうなっているのか、巨大な怪物になりつつあるファシスト中国共産党政権がどんな存在なのか、しっかりと見て下さい。そして日本人の皆さん、立ち上がってください。
 中国共産党政権は今現在、周りの国々に自分の経済力を浸透させています。ソフトパワーをもじわじわと浸透させようとしています。ですが、これらはやがて軍事的行動や大量移民などの強引で暴力的な手法になっていくのです。
 こうしたやり方はまず我々の南モンゴルで行われ、中国政府はここから得た経験を今ウイグルとチベットで生かしています。さらに香港、台湾に対して使っているのもかつての南モンゴルで行った手段の現代版です。私たちの先人は中国人に対し、素直で、友好的でした。しかし、最後にどのようになったと思いますか。すべてを失いました。現在の南モンゴルを見てください。中国政府によって大量の漢民族が南モンゴルに入植。本当に、すべてが失われてしまったのです。我々が1000年以上大切にしてきた草原も、土地に合わせた牧畜という生き方も、言語も、宗教も、歴史も、土地も、文化も、すべてです。もちろん、モンゴル人への弾圧も途絶えることがありません。
 先ほど述べましたとおり、私たちの先人は中国人に対し、素直で、友好的でした。現在の米国、欧州の政治家、日本の企業家も同じように中国共産党政権の甘い話を信じてしまっています。それは破滅に向かう道だと、改めて強く訴えたいと思います。
 先月6日、大東亜会議70周年の記念大会が東京で開かれました。私たちは、70年前の決議を忘れてはなりません。その精神を忘れてはなりません。この新しい共産ファシズムの中国共産党政権の侵略主義、覇権主義に抵抗するため、私たちは、日本、インド、オーストラリア、ベトナム、ミャンマー、台湾と連帯し、共同でアジア諸国の領土の主権、安全と平和を守り続けなければなりません。アジア諸国の経済の発展、秩序の維持、幸福な生活を構築するため、一緒に連携しなければなりません。
 ありがとうございました!

12月2日、東京にて

楊海英先生メッセージ「若きモンゴル人に寄せて」

静岡大学教授 楊海英先生

 私たちモンゴル人は世界史に名前を轟かせてきた民族である。13世紀に歴史の表舞台に登場して以来、数々の偉業を成し遂げてきたことは、洋の東西を問わずに高く評価されている。モンゴル人はずっとと歴史の主人公でありつづけてきたが、たまに、ある部族(ayimagh)が他人の支配下に置かれることもあったが、集団的な虐殺の対象にされることは、清朝末期の金丹道事件と文化大革命中のジェノサイドを除いて、ほかになかった。言い換えれば、中国人が主として、私たちをギロチン台に追い込み、血腥い屠刀を振り下ろしてきたのである。この歴史をモンゴル人として生まれてきた者は、今後、未来永劫にわたって、決して忘れてはいけないことである。
 文化大革命の場合だと、中国政府の公式見解によると、およそ34万人が逮捕され、27900人が殺害され、12万人に身体障害が残ったという。当時のモンゴル族の人ロは150万人弱だった状況を考えると、一つの家庭から最低一人が捕まえられ、50人にー人が殺されている。ほかにレイプなど性的犯罪が横行し、強制移住と母語の使用禁止が十年間にわたって強制された。これらはすべて政府と中国人すなわち漢民族主義で実施されたものである。過去に「日本に協力した罪」とモンゴル人民共和国との統一合併を目指した歴史が虐殺のロ実とされたのである。
 中国人たちはいつももっとも美しい言葉を振りかざして、もっとも残酷で、人類の倫理道徳に反する凄惨な犯罪を私たちモンゴル人やチベット人、それにウイグル人に対しで犯してきた。彼らは非常にうまく歴史を隠蔽してきたので、彼らの人道に対する犯罪はいまだに裁かれていない。モンゴル人大量虐殺事件は、ナチス・ドイツによるホロコースと同じ残酷で、規模も大きい。
 モンゴル人が大量虐殺された歴史は、内モンゴル(南モンゴル)に住むすべてのモンゴル人たちの「民族の集団の歴史的記憶」となっている。老若男女を問わずに、この事件を知らぬものはいない。私は20数年間かけで約100人以上の関係者にインタビューしたし、同時に多くの文献史料を集めた。『墓標なき草原』と同時に、資料集を5冊、公開した。すべて中国政府によるモンゴル人ジェノサイドに関する第一次史料である。中国政府の史料で、この事件の性質を証明しなければならない。
文化大革命の真実を分かった方々にお願いしたい。膨大な証言と第一次資料を用いて、国連人権委員会と国際人道法廷に訴えてほしい。つまり、これだけのモンゴル人が血を流したにもかかわらず、中国政府と虐殺を指揮した政府高官や直接殺人を働いた中国人たちはまだ、裁かれていないのである。今日、ある一国内の反人道の犯罪でも国際社会の介入による裁判が行われている。たった四十年前の反人道の犯罪を野放しにしてはいけない。勇気ある方々の登場に強く期侍したいところである。犯罪を裁いて初めて、真相和解が可能である。隠蔽し、歪曲するだけでは、和解は不可能だ。
 モンゴル人は「古くから中国の統一された、多民族国家の一員」ではない。第二次世界大戦のあとに、秘密に結ばれた『ヤルタ協定』が私たちの意思に反して、私たちを中国人に売り渡したに過ぎない。今日、モンゴル人たちが複数の国に分かれて住んでいても、お互いの運命に注視しなければ、またお互いに団結しなければ、常に他人に分割統治される危険性がある。自らの運命を変えるためにも、歴史の真相把握から始めよう。

楊海英

楊海英静岡大教授講演会「中国の民族問題 ―モンゴルとウイグルから考える」報告



静岡大学教授 楊海英先生



評論家で、表題の講演会でも司会を務められました三浦小太郎先生から講演会の報告文書の掲載許可を頂きました。ここにご紹介いたします。
ダイチン幹事長

ダイチン幹事長



なお、講演会では我が党のダイチン幹事長が閉会にあたりあいさつをいたしました。アジア自由民主連盟協議会のペマ・ギャルポ会長、日本ウイグル協会のイリハム代表、吉田康一郎元都議もいらっしゃいました。
http://freeasia2011.org/japan/archives/2841
こちらのページに、より詳しい情報が記載されております。


楊海英静岡大教授講演会「中国の民族問題 ―モンゴルとウイグルから考える」報告
三浦小太郎(評論家)
 
 12月1日、東京のTKP東京駅前会議室にて、静岡大教授で内モンゴル出身の楊海英氏の講演会が開催されました。主催は在日モンゴル人グループ「南モンゴル文化促進会」。80数人の会場はほぼ満杯となりました。
 楊氏は著作「墓標なき草原」「中国とモンゴルのはざまで」(ともに岩波書店)の内容を、様々なスライドを使って分かりやすく説明し、モンゴルの歴史が、まさに中国によるジェノサイドの犠牲と牧畜文化の絶滅による文化と環境破壊の歴史だったことを明らかにしました。特に文化大革命の時代、ソ連派のマルクス主義者、少なくともモンゴル民族の自決権を死守し、漢民族による支配だけは断固拒否した指導者、ウラーンフーに対する徹底した誹謗と、モンゴル民族全体への残酷な弾圧のありさまには目を背けたくなるものがありました。モンゴル人たちの罪は、モンゴル語を守り、草原の牧畜に根付いた伝統的な生活を守ろうとした、ただそれだけのものです。しかしそれだけで、彼らは修正主義、反革命、文明の敵とされ、舌を切り取られ、妊婦の胎内から胎児を引きずり出されるなどのひどい拷問が行われました(楊海英氏当日配布資料「中国による性犯罪を国際社会は裁くべきである」参照)。
 現在中国政府が認めているだけでも、文革の時代には1966年に150万人弱の内モンゴル自治区のモンゴル人のうち2万7千9百人が殺害され、34万6千人が逮捕されています。しかしここには「遅れた死」過酷な拷問により出獄後亡くなった犠牲者数は含まれない。研究者の中には30万人を超える犠牲者が出たという説もあります。
 そして文化大革命当時の、中国共産党指導者らのモンゴル人に対する姿勢はまさにジェノサイドに直結する差別言語、ヘイトスピーチそのものでした。楊海英氏は当時の漫画を紹介し、ウラーンフーやモンゴル民族が戯画的に、また社会の敵として描かれており、日本と違い、漫画は中国に於いては徹底的な共産党の敵に対する攻撃の武器であり、プロパガンダであることを指摘、モンゴル人たちが抹殺の対象だったことを説明しました。
 そして楊氏は、現在のモンゴルでも未だにモンゴル人への迫害と、その牧畜文化への破壊は進行中であること、そして最近調査したウイグルに於いても、ウイグルの伝統とは全く異質の漢族の文明が強制され、新興の高層ビルは立ち並んでいるがそれを経営しているのはすべて中国人でありウイグル人は貧困に追いやられ、しかも明確に差別されていることを現地写真などで説明。中国の残酷な民族絶滅政策のありさまを再確認することが出来た貴重な講演会でした。
 なお、楊氏の「中国とモンゴルのはざまで」(岩波書店)には大変印象的な事実が記されています。急激な人民公社化により社会が混乱し、大量の孤児が出現していた60年代、ウラーンフーは、その遊牧民の子供として引き取ることを提案し、実際数千人の孤児をモンゴルに受け入れました。遊牧民の習慣を受け入れ、その生活になじむのならば、民族を超えて受け入れようとしたモンゴル人たちと、モンゴルの伝統的な牧畜生活すら非文明的なものとして全否定し、従わないモンゴル人を虐殺していった中国共産党独裁政府では、少なくともその人間性において天地の差がある事を感じさせてくれる歴史のエピソードでした。(文責 三浦小太郎)
 


 また、講演会には衆議院議員の三宅博先生よりメッセージを頂きました。

【衆議院議員三宅博先生 メッセージ】
 国際社会における中国共産党暴力政権の存在は、人間の体内にできた癌細胞と同様のものであります。癌細胞が肥大化すればその人間が死に至るように、中国の暴力がこれ以上広がると国際社会は崩壊し、人類は滅亡に向かうでありましょう。暴力を用いて政治的目的を達成することがテロの定義とするならば、中国暴力政権は世界最大のテロ組織と言えましょう。
 西洋合理主義思想が限界に直面しております。何故ならこれは弱肉強食の論理であり、憎悪と奪い合いの野獣の世界の思想でもあるからです。今こそそれに代わって慈悲と人類愛に基づく新たな思想によって国際社会が運営されなければなりません。
本日の楊海英先生のご講演はこの点を視野に入れたものと確信しております。日本の政治及び外交が世界の普遍的平和を追及するために、国政に身を置く一員として全力を尽くします。
最後に、本日ご参加の皆様と共に、中国の暴力に苦しむ多くの人々の平安と幸福を心からお祈りしたいと存じます。

衆議院議員 三宅 博



当日の講演会の資料は以下の通りです。

中国による性犯罪を国際社会は裁くべきである
楊海英

 いわゆる「従軍慰安婦」を「性奴隷」と見なす宣伝が活発化している。こうした政治的な喧伝は戦勝国が自身の性犯罪を隠蔽するための謀略でもある。私はここで、戦時ではなく、平時における中国政府と中国人たちによる性犯罪の事実を告発する。国連はじめ、国際社会が中国の性犯罪を不問にして今日まで放置してきたのは無責任である。これから、国際人道法廷と良識ある市民が中国の犯した性犯罪を裁くよう求めたい。
 中国政府と中国人による性犯罪信マイノリティのモンゴル民族に対して、組織的に発動された。この性犯罪は一九六六年から一〇年間つづいた文化大革命中に起こった。性犯罪だけでなく、文化大革命中にモンゴル人の領土、内モンゴル自治区で大量虐殺が発生した。中国政府の公式見解によると、三四万人が逮捕され、二万七千人が殺害され、一二万人に身体障害が残ったという惨状である。当時のモンゴル族の人口は一四〇万人だったので、一つの家庭から最低一人が捕まえられ、五〇人に一人が殺された計算である。欧米の研究者がおこなった現地調査では、殺害されたモンゴル人の数は一〇万人に達するとしている。殺戮の他に性犯罪も長期にわたって各地で横行した。モンゴル人が大量虐殺され、女性が性犯罪の犠牲者になった原因は、満州国時代に「日本に協力した罪」とモンゴル人民共和国の同胞との統一合併を目指した自決の歴史にある。中国がモンゴル人の自決運動を「祖国を分裂させた行為」だと批判したためである。(抽著 『墓標なき草原』参照)。
 中国政府と中国人が主導したモンゴル人ジェノサイドについて、私は五冊の第一次資料を日本で刊行し、研究してきた。このうちの第五冊は『被害者報告書』からなっており、女性たちが自身の経験した性的被害を記した記録である。その数例を紹介しよう。 
 まず、内モンゴル自治区西部のトゥメト地域での実態を見てみよう。例えば、四家蕘人民公社では共産党書記の白高才は中国人たちを集めて、モンゴル人女性を逆さまにしてその陰部を縄で引き、大怪我をさせた。中国人たちは妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を引き出した犯罪も働いた。中国人たちはこれを「芯を抉り出す」(挖芯)と呼んでいた。実際、ワンハラという女性を中国人たちは「民族分裂主義者」だと決めつけ、彼女に対して「芯を抉り出す」暴虐を実施した。手を陰部に入れて子宮にまで達し、四か月になっていた胎児を引き出した。
彼女はこの暴挙が原因で亡くなった。
 内モンゴル自治区中央部のチャハル右翼後旗のモンゴル人たちは次のように回想している。
 <ドルジサンという女性の牧畜民がいた。ある晩、中国人たちは彼女を裸にしてから手と足を縛った。そして、刀で彼女の乳房を切り裂いてから塩を入れ、箸でかき混ぜた。鮮血は箸に沿って流れ、床一面が真っ赤に染まった。彼女はこのように十数日間にわたって陵辱されて亡くなった。>
 このチャハル右翼後旗のあるウラーンチャブ盟では、計一六八六人のモンゴル人が惨殺されていた。

中国人が創出する「性奴隷」

 近年、私はモンゴル人女性の性的被害状況について調査を進めいる。以下はフフホト市に住むモンゴル人の証言である。彼女は当時、ウラーンハダ人民公社に暮らしていた。 
 <私が住んでいた集落は五戸のモンゴル人からなり、九人の女性がいた。一九六八年二月のある日、中国人たちは片手に毛沢東語録を持ち、もう片手で鞭を持って私たちを叩いた。鞭が切れ、棍棒が折れるまで殴られた。親戚の二〇代の女性は殴られて流産したが、中国人たちは大声で笑い、喜んでいた。
 モンゴル人女性は例外なく中国人幹部や解放軍の兵士にくりかえしレイプされた。あの時代、半径数十キロ以内のモンゴル人女性たちに逃げ場がなかった。
一九六八年の夏のある晩、彼らは私たち五人の女性を丸裸にして草原に立たせた。
私たちは両足を大きく広げられ、股の下に燈油のランプが置かれた。する、無数の蚊や蛾などの虫が下半身に群がってきた。このような虐待方法はその後、何日もつづいた。凌辱されている時、大勢の中国人たちがまわりでみて、笑っていたのである>
 このように、中国政府と中国人たちはモンゴル人女性をまさに「性奴隷」として扱っていたのである。
 中国政府と中国人たちがモンゴル人女性に対して働いた組織的な性犯罪の特徴は三つある。
 一、この性犯罪は戦時ではなく、平時に犯したことだ。文化大革命期は、「中国人民が資本主義より幸せな社会主義の大家庭に暮らしていた太平の世」だと政府が唱えていた。
 ニ、性犯罪を主導したのは、「人民の子弟から人民解放軍」と「五千年もの長い歴史を持つ文明人の中国人」だった。中国人はモンゴル人などを「野蛮人」と貶す。「文明人」は「野蛮人」に対し、何をしてもいい、という心理が働いていた。
 三、戦場における性の売買と異なり、中国が犯した性犯罪には残虐行為が伴っている。残忍性こそが中国政府と中国人が働いた性犯罪の特徴である。
 モンゴル人被害者は泣き寝入りを強制され、訴えられない状況におかれて今日に至る。中国政府は犯罪者を逮捕し、裁判にかけるような措置を取らなかった。国際社会と国際人道法廷今後、中国の未解決な人道に対する性犯罪を裁かなけばならない。
 勝った中国を善なる存在と見なして称賛し、負けた日本を叩く「進歩的な人士」が日本にいる。彼らも中国の性犯罪を認めようとせずに、逆に中国の少数民族弾圧に加担する。「進歩的人士」の行為も人道に対する犯罪と同じである。

ダイチン幹事長がムック記事で南モンゴルについて語りました

ダイチン幹事長がウイグルのイリハム・マハムティ氏と共にムック記事で南モンゴルについて語りました。ぜひムックを書店にてお買い求めの上、ご覧ください。


モンゴル自由連盟党、「大東亜会議七十周年記念大会」に参加

 平成25年11月6日、大東亜会議七十周年記念大会実行委員会と呉竹会・アジアフォーラム開催の「大東亜会議七十周年記念大会」にモンゴル自由連盟党が参加しました。南モンゴル問題研究所による報告です。
 



 
 憲政記念館で開かれた会議には約500人が参加し、共同代表である加瀬英明氏、頭山興助氏らが講演されました。会議の実行委員と協賛団体には自由連盟党の他、アジア自由民主連帯協議会、アジア民主化促進協議会らのメンバーの名前があります。

 今から70年前、つまり昭和18(1943)年11月6日に、大東亜戦争の激戦が続く中、当時のアジア七ヶ国の首脳が東京に結集し、帝国議事堂(今の国会議事堂)で、大東亜会議を開催しました。この会議は世界初の有色人種サミットでした。大東亜戦争以前のアジアの独立国は、わずかに日本、中華民国、タイ、満州国の四ヶ国を数えるのみでした。大東亜会議には、戦争中に日本との協力の下に独立を実現したフィリピン、ビルマ両国が参加し、また当時独立は果たしえていませんでしたが、インド国民軍を率いて日本と共にイギリスとの独立戦争を戦っていた自由インド仮政府首班も参加しました。会議では、中華民国の汪兆銘行政院院長、タイのワンワイタヤコーン内閣総理大臣代理殿下、満州国の張景恵国務総理大臣、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ内閣総理大臣、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班、そして主催国である日本の東條英機内閣総理大臣らが参加しました。その会議で、「道義に基く共存共栄の秩序を建設する」、「万邦との交誼を篤うし人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献する」という大東亜宣言を満場一致で選択しました。この精神は、この後アジア・アフリカ諸国の独立と、欧米における人種平等政策となって結実しました。

 しかし残念なことに、ここアジアにおいては、チベット、モンゴル、ウイグル、満州の諸民族は独立を奪われ、未だに道義も国際法も守らない独裁政権が中国、北朝鮮などに存続しています。大東亜宣言の精神は、未だに実現していない理想像として生き続けています。戦後に、この歴史的会議の意義は戦勝国によって、また日本の多くの心ない言論人・政治家によって否定され、この大東亜会議参加国をまるで日本の傀儡政権であったかのように描く論調が未だに跋扈しています。

 大東亜会議開催から70周年を迎える日に、「私たちはこの記念すべき年にあたり、宣言採択と同じ日に、記念大会を開催すると共に、アジア独立の志士たちを讃え、彼らの独立運動を支持した日本の歴史的意義を自らの歴史を奪われ見失いつつある日本国民に訴えるものです」と、開催者が宣言し、会場は非常に温かい雰囲気に包まれました。

 会議では、世界ウイグル大会の代表であるラビア・カーテル氏のメッセージが伝えられ、トゥール氏も現在のウイグル人においての残酷な現状について講演しました。アジアでは、日本は唯一の強力な国家として、インド、フィリピン、ビルマ、チベット、ウイグル、南モンゴル及び東南アジアの国々と結集し、アジアや世界の悪魔である独裁政権を持つ中国に対して強烈に抵抗し、世界の平和と安定に貢献するべきであると考えられます。

南モンゴル問題研究所
平成25年11月11日






楊海英先生講演会のお知らせ「中国の民族問題 ―モンゴルとウイグルから考える」

(以下は主催者様のサイトよりの転載です)

この10月、 天安門で車両が突入した事件を、 中国政府はウイグル人テロ組織によるものと充分な証拠もなく断定、 ウイグル人をはじめとする各民族への弾圧を強化する模様です。
そして南モンゴル (内モンゴル自治区) も、 かって60年代に大虐殺が行われ、 しかも漢族の大量移住によって完全に侵略された悲劇の歴史をたどりました。
 今回はモンゴルにおける虐殺の歴史を原資料に基づき客観的に提示した楊海英先生をお招きし、 中国現代史がいかに民族虐殺が行われてきたか、 そして民族問題解決のためには何をなすべきかを考える講演会を開催します。
 
講演日時 : 平成25年12月1日 (日曜日)
       14時開場、 14時半開会 (14 : 30~17 : 00)
参加費 : 1000円 ・ 学生 (留学生) 無料
講演場所 :TKP東京駅前会議室
           東京都中央区日本橋 3-5-13 三義ビル2F / 東京八重洲口徒歩5分
主催 : : 南モンゴル文化促進会
協賛団体 : アジア自由民主連帯協議会 http://freeasia2011.org
 

画像をクリックするとPDFを表示でき、印刷も可能です。

知られざる南モンゴルの惨状

南モンゴルの由来
 中国共産党に弾圧されているのはチベットやウイグルだけではない。南モンゴルでも全く同じなのだ。その南モンゴルでは、伝統や文化、経済、人権、果ては環境までもが破壊されている。
 そもそも南モンゴルというのはどこであろうか。現在のモンゴル国の南の一部であることを地図上から簡単に分かる。(地図1)しかし、モンゴルの一部であるはずの南モンゴルがなぜ中国の「不可分な(中国政府の言い方)」一部になってしまったのか。南モンゴルは一体どのようにして中国に乗っ取られたか。いま中国で「内モンゴル自治区」と呼称されている地域を、我々南モンゴル人は、『南モンゴル』と呼ぶ。

 当時の大清国の滅びる一年前の1911年にモンゴル国が独立を宣言してから、1949年までの間、南モンゴルでは独立運動が活発に行われていた。中華民国の軍閥、中国国民党、そして現在の中国共産党を相手に、懸命に戦った。当然、独立運動をしている間には武力衝突も避けられないため、多くの人が血を流したのであった。
 だがその頃よりも、南モンゴルが「内モンゴル自治区」(1947年成立し、1949年に正式に中国に組み込まれた)となって中国の一部に組み込まれてから現在に至るまでの間の方が、さらに多くの人が亡くなっている。1966年から1976年の間には文化大革命があり、すさまじい数のモンゴル人が犠牲になった。
 南モンゴルの政府高官や兵士、知識人そして一般人まで、大勢の人たちが次々に殺されていったのだ。当時の南モンゴルのモンゴル人の人口は150万人しかいなかった。その内、100万人が逮捕され、死傷者は数十万人と言われる。残虐行為は想像を絶するもので、女子供を吊るし上げて拷問したり、舌に針を通したり、素足で火の上を躍らせたり、強姦し、陰部を串刺したりペンチで歯を抜いたりしたりした。拷問の方法はなんと170種類にのぼる。人民解放軍の劉小隊長の伝記には「モンゴル人たちが全員死んでも問題ない。わが国の南方にはたくさん人間がいる。モンゴル人たちの生皮を剥ごう」とまで書かれていた。
 北京の中国政府は、モンゴル人の犠牲者の数を約2万7000人と認めているのだが、南モンゴルで独自に調査した結果と、アメリカの人類学者によるサンプル調査によると、この間に少なくとも10万人ものモンゴル人が亡くなったという結果が出ているのだ。
 文化大革命でモンゴル人が殺されなくてはいけなかった理由は何もない。1960年代だから、中国の一部に組み込まれてから20年も経っていた時期だった。独立運動をしていたわけでもない。ただ一つの理由は、彼らはモンゴル人だったからだ。中国政府にとって、かつて独立運動をしており、日本とも協力していたモンゴル人達は、いつまでも不信と不安が残ってたまらない存在だった。
 今回の記事では、こうした歴史的経緯は置いて、今現在の南モンゴルの知られざる実態を環境、経済、文化教育及び人権のいくつかの部分に分けて紹介する。一人でも多くの日本人に知ってもらいたい。南モンゴルの真実を少しでも知ることできたならば、今日の中国の日本に対する姿勢、あるいは、東南アジア、南アジア、中央アジアへの拡張の本心がもう少し分かりやすくなるのではという気持ちをこめて。

環境という世界的な問題
 モンゴルといえば草原。草原イコールモンゴル。モンゴル人の生活は、草原から切り離すことは出来ない。これは、草原はモンゴル人の生活基盤だったからだ。モンゴル草原を吹き渡る風や流れる河、それに草一本や砂一粒でもここで暮らし続けてきたモンゴル人の宝であり、モンゴル人が代々行き続けるための生存基盤なのだ。モンゴル人には、祖先から受け取ったこの草原を次世代に継承する責務がある。一度砂漠化された草原は二度と回復できない。
 しかし、中国の侵略から60何年間の短い時期を経て、南モンゴルの環境状態は非常に悪化している。人々が「モンゴル」という言葉で想像するあの緑豊かで広々とした草原は砂漠化して行く一方だった。中国共産党政府は、南モンゴルのこの砂漠化の責任をモンゴル人の放牧にあるとした。即ち、砂漠化の進行は放牧のせいだと主張し、南モンゴルで「放牧禁止」という政策を採っているのだ。だが、これは単なる責任転嫁に過ぎない。実際には農耕と資源採掘と工業化が原因だ。しかも、資源開発による利益は中国人に独占されている。モンゴル人に対し「生態移民」や「放牧禁止」の政策を採りながら、一方で草原で石炭、石油などの乱開発を進めている(写真2)。
 いまや面積が118万㎢である「内モンゴル自治区」の60%が砂漠化していると言われている。

「生態移民」の持つ意味
 モンゴル人の生活するモンゴル高原では、年間平均降水量がわずか300ミリ弱、それに寒冷や強風の気候条件、砂地という条件が加わっている。中国人たちが、南モンゴル地域で畑や水田が作られたことを成功といっているが、それは一時的なものに過ぎない。モンゴル草原は農学的に見ても開墾に耐えられない、非常に砂漠化しやすいところなのだ。だからこそ放牧という、土地にあった知恵が生まれたのだ。
 政府は、モンゴル遊牧民を、漢民族が密集している都市部に移住させる「生態移民」政策を採用しており、17万人ものモンゴル人を草原で続けてきた伝統的放牧生活から強制的にさせられる計画がある。これからもっと増やす計画のようだ。
自分達の生活手段を奪われたモンゴル人達が町に行き何をするのか。家畜を売り、政府の用意してくれた建物に生活することになる。しかし、その建物にただでは住めない。政府からもらったわずかの助成金のほとんどを払って入居するのだ。そして、政府が紹介した乳牛を一、二頭飼って家族の生活を維持する。ほとんどの移民村は、類似した状況にある。

 もともと自分達のふるさとで比較的楽な生活をしていた人たちが、全く違う文化の町に来るのだ。成功する人間はほとんどいない。仕事をはじめ、文化、子供の教育問題などいろいろな解決できない問題が生じてくる。(①強引に牧民を移転させる「生態移民」。②開発が迫り、移転を余儀なくされるモンゴル人家族。③いわゆる移民村の様子。④移住先の職業はない為、貧困にあえぐ)





 中国共産党による六十数年の植民支配の間、政府の打ち出したあらゆる「政策」により、モンゴル人の土地や資源は漢人達に奪われ、モンゴル人学校は廃校され、道徳や価値観、伝統文化は極めて大きな損害を受けた。政府のあらゆる「政策」はモンゴル人の権利を無視し、環境保全に配慮せず、モンゴル草原の砂漠化を進行させた。南モンゴル人達が、この「生態移民」政策により、自分達の土地、経済基盤、そして伝統、文化などすべてを失っていく。「生態移民」政策こそが、中国共産党政府のモンゴル民族を絶滅させる政策だったのだ。

人権なのか、民族差別なのか
 南モンゴルの文化、経済、人権各方面での圧迫は21世紀の現代社会と思えないほど苛烈なものだが、毎日のように起こっている。
 まず、中国当局の政策により、1950年代から今日に至るまで、大量の中国人が南モンゴルに移住してきた。その数なんと1500万とも言われる。いまや「内モンゴル自治区」で80%が中国人、モンゴル人はわずかの17%の絶対的少数民族になってしまったのだ。
 最近、「生態移民」「放牧禁止」などと同じように注目されるのは、中国人の南モンゴルでの乱暴狼藉である。即ち、あらゆる手段を使ってモンゴル人の土地を占用し、抵抗しようとするモンゴル人達を暴力で攻撃するのだ。これは、中国当局、警察、開発業者と暴力団が一緒になって行う。そのため、モンゴル人がいくら攻撃されても社会問題にならないのだ。

 もし逆に、土地などの紛争でモンゴル人たちが中国人たちに怪我をさせたのであれば、少なくとも刑事責任を問われ、罰金あるいは懲役刑を受けるであろう。さらに、そういった事件が少し広がれば、政府から公安・武装警察だけではなく軍まで派遣されるような事案となるだろう。そして、事件を起こしたモンゴル人達は、“民族分裂主義者”とされ、「我々の偉大なる祖国を分裂させようとしている犯罪運動である」と決め付けられことになるのだ。(写真、①②は、オンニュデ旗でモンゴル人達が攻撃され、18人が怪我し、そのうち2人が重傷を負った事件。同じようなことがその二年前と今年も起こった。③は、2013年、西ウジムチン旗、中国人に攻撃され、倒れたモンゴル人。④⑤は、バイリン右旗。土地を無法に奪われ抗議する年寄りのモンゴル人を脅す武装警察と、まるでヤクザのような風貌でモンゴル人を脅かし中国人をかばう警察。⑥フルンボイル旗。こうした狼籍から自分達の土地を守るため抗議活動をするモンゴル人の横断幕。それをエジナー旗の副旗長が自ら引きずりおろそうとする)
 



 

 教育は民族の発展の根本である。しかし、いまや南モンゴルではほとんどの学校は中国語教育である。モンゴル語の小中学校は次々に合併、廃校が進められた。その中でも「チベット・モンゴル医学学校」の校長は精力的に教育に取り組んでいたが、当局が強引に逮捕。本人が身の危険を感じ、モンゴル国に亡命、国連難民高等事務局に難民申請中にもかかわらず、中国の警察がモンゴル国まで赴き校長ら家族3人を逮捕してきたのである。校長は懲役3年となった。


 「南モンゴル民主連盟」会長のハダ氏は1995年12月に逮捕し、「国家分裂罪」、「スパイ」などで懲役15年を言い渡された。2010年の12月10、国際人権デーに釈放されるはずだったが、いまだに行方不明である。


 そのハダ氏の同級生である南モンゴルの作家ホーチンフ女史が、「釈放される日に迎えに行くべき」と自分のミニブログに書いたため、二年以上自宅、ホテルなどで軟禁された。軟禁されているときに警察の暴行を受けた後の写真。


 この南モンゴルこそが、いわゆる「大きい・強い」中国の侵略行為の第一歩になったのである。ウイグル、チベットなどが中国に侵略された事実は国際的にも今や有名だが、最初に侵略されたのは南モンゴルだったのだ。南モンゴルを植民地の実験台にして得た経験を、中国共産党政府はいまウイグル、チベットにに実行している真っ最中であるのだ。

南モンゴル人としての日本への期待
 中国共産党政府は、南モンゴルだけではなく、チベット、ウイグルなどの地域で弾圧、圧迫を続けてきた。中国の異民族に対する干渉、膨張的な政策を直視しないと、やがてこれは日本の危機を招くことになる。事実、尖閣諸島に対する干渉も強まっていることが日本人の皆さんの目にもはっきりと映っているだろう。
 日本政府が経済面で中国との友好関係を必要としていることは、我々も理解している。しかし、経済的利益以上に、人権問題や安全保障問題は重要なはずだ。
 真の民主主義というのは何だろう。正義、道義をなくして民主主義は成り立たない。すべてを数で決まるのは民主主義のすべてではない。自分の家族だけが幸せであればよい、隣の家で殺人事件が起こっても見てみてない振りをするのが真の民主主義ではない。
 敢えて言おう。現在の中国を生み出したのは、日本を含めた、欧米列強である。自分の国の国益だけを考え、弱小国や民族の運命を無視するとしたら、やがてそれが祖国に回ってくるときがくる。
 現在の日本は、世界のあらゆるところで経済的に大変すばらしい貢献をしている。だがそれだけでなく、民主主義の最も基本的、根本的な自由、人権に対しても世界に貢献していただきたい。南モンゴル人として、切に願うところである。

バヤンバートル氏惨殺事件に対し世界各国でモンゴル人の抗議活動

2013年8月19日、内モンゴルで牧畜民バヤンバートル氏が中国鉄道局第23工事隊の漢人工員により残酷に打ち殺された事件が発生。これに対し、9月8日(日曜日)、モンゴル国のウランバートル市、アメリカ合衆国のワシントンDC、ニューヨーク市、日本の東京などで、モンゴル人達が各地の中国大使館や領事館の前に集まり抗議行動を行いました。
 
日本・東京






モンゴル・ウランバートル







アメリカ・ワシントン









アメリカ・ニューヨーク









 

南モンゴル人作家・活動家フーチンフー(高玉蓮)女史の中国共産党による逮捕、監禁、拷問、行方不明について

 2010年11月の雪に覆われたある日、内モンゴルの東部にある町通遼市内のある住宅アパートを一人の老人が訪れた。塀の正門をくぐって行ったところ、二人の門衛がやってきて「誰の家に行く?」と尋ねた。老人が「俺の妹の家だ」と応えると門衛は「お前の妹は誰だ」と聞いた。老人は誇らしく「フーチンフーだ」と答えた。フーチンフーだと聞いたとたんに、さらに五、六人の警備員が駆けつけて来て、「フーチンフーには誰も会えない、家へ帰ってくれ」と言われた。一瞬呆然とした老人は、周りに約二十何人もの見張りがいることに気づいた。このフーチンフーはいったいどんな人物か。二十何人もの見張りがいるということはどういうことであろう。その経歴を辿ってみよう。
 
ハダ・シンナ・フーチンフー、南モンゴルのために活動する3人のリーダー
 内モンゴル自治区の有名な民主運動活動家ハダ氏は既に知られている。フーチンフーはこのハダ氏と大学のクラスメイトで、ハダの夫人シンナの三人は親友だった。1981年に南モンゴルで、内モンゴルへ大量の漢人農民を移住させるという中央政府の政策を打ち出した「28号文件」に反対する学生運動に二人とも参加する。卒業後そのまま大学に残って教員になることを決めていたが、これにより阻止される。
 大学を卒業後、ハダは内モンゴルの首府フフホト市のある高等学校の教師に、フーチンフーは東部のジリム盟に、それぞれ教育現場の職に就く。
 1989年、ハダはフフホトでモンゴル学の専門書店「蒙古学書社」を開く。
 フーチンフーもこの頃はジリム盟(今は通遼市)の教育研究所の副主任になる(これは内モンゴル自治区が成立した時から政府機関でモンゴル人に与えられる通例のポストで、正主任は勿論漢人でなければならないとされている)。教育研究所は民族教育機関だが、トップが漢人であるため、ジリム盟の全てのモンゴル学校で漢語(中国語)で授業することを推進しようとしていた。フーチンフーはずっとこのような政策の推進に抵抗し、モンゴル人の子供たち母国語で教育を受けることの重要性を強調し続けた。そして、1990年に、彼女はモンゴル学校教育向けに《作文の書き方》を発表する。この時から彼女の著作と活動には、破壊されつつあるモンゴル伝統文化の保全とモンゴル学校教育に有害な政府の政策を食い止めようとした内容がはっきりと表れてくる。
 
「南モンゴル民主連盟」の発足と中国共産党による苛烈な弾圧
 1992年5月、ハダを始めとするモンゴル人の知識人たちはフフホト市内で一堂に集まり、「南モンゴル民主連盟」という組織を発足させ、ハダは主席に就任し、フーチンフーも組織の指導者の一人になる。そして、「南モンゴル民主連盟組織規則」および「南モンゴル民主連盟章程」を起草し、漢族による内モンゴル自治区への植民地化に抵抗して、モンゴル人の民族自決と民主化のために闘争することを宣言した。
 1995年12月10日、いわゆる世界人権の日に中国政府は「南モンゴル民主連盟」を「分離活動を行なう非合法組織」とし、その会員たちを逮捕した。逮捕されて拷問受けた人は50人に上り、第二回目の「文化大革命」が発動されるかのようだった。主席のハダは「国家分裂罪」と「スパイの罪」だとされ、徒刑15年間の判決を与えられ、ウラーンハダ市にある内モンゴル第四刑務所に入れられた。
 内モンゴル自治区への漢族の大量移民による草原開墾の拡大、地下資源の開発による草原の環境破壊、モンゴル族への産児制限政策をはじめとする人権侵害など、中国共産党政府の内モンゴルで行っている政策の実態を暴き、モンゴル人の伝統文化の保全と発展を求める「南モンゴル民主連盟」は「中華人民共和国憲法」と「民族地域自治法」に保障されている枠内で活動をしていたが、三年間経って挫折した。
 通遼市で、フーチンフーも逮捕され、刑務所に入れられた。1992年に、フーチンフーは乳癌で手術を受けたため、右腕がつねに普通の人の手より一回り太く腫れ上がった状態だった。冬の季節で、刑務所の劣悪な条件と寒さに耐えられず、二週間後に体調が崩れ、入院しなければならなくなり市内の病院へうつる。そこで、すでにリューマチを患っていたことが判明する。その治療で服用した薬の影響で今度は高血圧になった。健康状態の悪化とハダと一緒に行った「罪」の証拠が見つからなかったことで釈放されたが、半年以上、毎日のように公安局に呼ばれ尋問された。この時フーチンフーは既に離婚していたため、11歳の息子チェールと二人で暮らしていた。
 
ハダ獄中時代のフーチンフーの執筆活動、インターネットでの活動
 ハダに十五年間の判決が下されたというのは全てのモンゴル人にとってはあまりにも絶望的な知らせであった。当時裁判の傍聴席にいたフーチンフーは「十五年の年月は長いが、中国も民主化が進み、何らかの変化により、ハダも早く釈放されるだろう」と自分を、またハダの奥さんのシンナを慰めるしかなかった。
 そして、当局はフーチンフーに対して、ハダとの友人関係を直ちに断絶し、シンナとの往来も中止するように圧迫かけたが、フーチンフーは断った。
 皮肉にも、この時からフーチンフーとシンナは運命がほぼ同じくすることになる。フフホト市で、シンナと息子のウィーレス、通遼市でフーチンフーと息子のチェール、それぞれ母子の二人暮らしになる。お互いを励まし合い、子育てこそ二人の唯一の喜びだった。しかし、同年生まれのウィーレスとチェールの運命は全く違ったものになった。チェールは順調に中国内地の名門大学にはいるが、2001年、17才のウィーレスが高校二年生の時、学校の男子生徒と喧嘩したことをきっかけに、「強盗犯」という無実の罪で逮捕され、無惨にも三年間の徒刑を下される。
 シンナはフフホトの高等専門学校の教師から免職され、フーチンフーは教育研究所の副主任から普通の研究員に降格させられる。フーチンフーは幸い免職から逃れたが、具体的な仕事の内容は与えられなくなったため、作文を書くことに専念するようになる。そして、モンゴル語の季刊誌「ウニル・ツェツェグ」や「シャラームレン」などに多数の作品を掲載した。
 2000年代初頭のインターネットが導入された後、彼女は非常に活動的なブログ作成者になる。彼女は管理者としていくつかのモンゴルのウェブサイトおよびフォーラムに取り組んでいた。主に、「モンゴルゲル」や「エヘ・オルン」といったウェブ組織のメンバたちと一緒に資金を集め、モンゴル学校での貧しい学生を経済的に援助する活動を展開した。2007年までに、赤峰市、通遼市、シリンゴル盟の三つの地域から小学校と中学校を範囲に、家庭が貧しい47名の学生を援助していたが、「エヘ・オルン」は2003~2007年の間に四回、「モンゴルゲル」は2000~2010年の間に六回、それぞれ公安当局に閉鎖された。閉鎖された唯一の理由は「民族主義色彩が濃い」だった。そして、2010年4月18日、「モンゴルゲル」の経営者ソドーは秘密裏に逮捕され、三ヶ月以上行方不明になり、「モンゴルゲル」は完全に閉鎖される。
 2007年春、フーチンフーは季刊誌などで公開掲載した作品を整理し、「頑石無言」と「石心樹」の二冊の散文詩集を出版しようとした。旅行随筆や感想文、小さいころの出来事、自然環境などを題にした文章がほとんどで、共産党の神経を尖らせる敏感な政治的問題に触れた内容は一切書かれてないことにも拘わらず、出版は許されなかった。公安局は内モンゴルの全ての出版機関にフーチンフーの本の出版を受け入れないように命令を出していた。そして、中国内地の幾つかの出版社とやり取りして試みたが、やはり阻止された。これは、本の内容がともかく、フーチンフーはどんな内容の本でも出版してはならないということだ。それに、フーチンフーの日常すべての社会的行動は厳しい監視下に置かれていたことになる。
 半年経って、ようやく香港のある出版社で出版することが出来たが、まもなく公安局に密告され、アパートの倉庫に置かれた1000冊の散文詩集が三日間も経たずに警察に没収された。出版費用は借金で、約一年間の収入に相当する。フーチンフーは毎日のように通遼市公安局と安全局に行ったが、当局から何の返事もないまま終わった。
 また、この年の七月にフーチンフーは外国へ旅行するためにパスポート申請したが、公安当局から拒絶された。「国家の安全利益に害を及ばす可能性がある」という理由で、2007年7月18日から2011年7月26日の間まで出国を禁じられた。
 一方、フフホト市のシンナも警察との日々が続いた。私服の警察が常に本屋にやって来て何の理由もなく、多額な書籍や工芸品を略奪し去っていく。この文章の作者は、1998年、学校の夏休みに「蒙古学書社」(商品としてはモンゴル学に関する書籍が主で、モンゴルの模様を印刷したTシャツ、モンゴル語のCDや民族工芸品なども販売する)でアルバイトとしてシンナの手伝いをしていた。ある日、突然私服の四人の男が入ってきて、警察だ!と言い、警察証も見せずに「ここはモンゴル語のCDやカセットテープの販売は禁止だ」と威張って、目にとまったCDやカセッテテープを全部没収すると同時に、店の門前に置いていたスピーカーも、市の「美しい容貌」に「悪く影響」を与えているとの理由で容赦なく奪って行った。後にシンナは何回も戻そうと行ったが無理だった。シンナは「こんなことは一年間に何十回も起こることよ」と、そこで嘆くほかに何も出来なかった。
 
中国政府の弾圧手法の特徴
 中国の「五千年の輝かしい」歴史に「诛连九族」という独特な発明がある。一人が罪を犯せば、すべての親族を連座させて処罰する。中国共産党は南モンゴルを支配下に置いた1947年から始め、1976年までに、その独特な発明をそのまま南モンゴルに持ち込み、「土地改革」「反右派闘争」、それに「文化大革命」などといった絶え間ない「政治運動」が行われ、「犯人」とされたモンゴル人の親族だけではなく、友人や知り合いまで連座させて、大量の虐殺を働いた。南モンゴルの全てのモンゴル人はなんらかの形でその連座処罰を受けた経歴をもつ。そして、いまだにその記憶が深く残っているため、「政治的問題」のある人と親しくなることは一種の恐怖であり、危険さえ伴うことである。
 ハダの17才の息子への無実の罪による三年徒刑、シンナの本屋での強盗的な没収、フーチンフーへの出国禁止、出版権の剥奪とその書籍の没収、このいずれにしても、「诛连九族」という歴史的な伝統が、21世紀の内モンゴル自治区のモンゴル人社会対して執行されているのが事実だ。
 フーチンフーもシンナも「重大な政治問題」を抱えている「危険人物」だと見なされ、この人たちとの往来によって、自身に危険を及ぼすしかねない、と思う昔の友人や知り合いたちの多くは情けないと思いつつも離れていくしかなかった。だが当然、善悪の別をわきまえる人たちも少なくなかったし、あらゆる方法で助け合い、支えていた。このような過酷な現実を乗り越える力は、獄中にいるハダの堅持し続ける不屈な信念だと、シンナもフーチンフーもそう言う。
 
ハダ釈放の日、しかし……
 時は進み2010年になる。この年の12月10日は、全ての南モンゴル人心中の英雄が釈放され、再び目の前に現れるはずの日だ。中国も経済発展が著しく、常に「法治社会を作り上げた」というスローガンを掲げているため、法律に裁かれた人はまた、法律によって釈放されるだろうとモンゴル人はそれを信じ、ハダの釈放を切望していた。
 だが、この年の初めから当局は緊張し始めた。シンナとウィーレスは、4月に一回獄中のハダを見舞うことが出来たが、それ以後は一切会わせてもらえなかった。
 2010年11月6日、フーチンフーは自分のブログに、ハダが釈放される日に皆で迎えに行きましょう、との呼びかけを書き込んだが、11月11日に公安局に連行された。この日から、アパートの下に監視の車二台と私服の警察が8人配備され、正式に自宅軟禁された。11月17日にフーチンフーは「自由アジアラジオ」のインタビューを受け、獄中のハダの状況と自分の現状について語った。これによって、携帯電話や固定電話、コンピュータなどが没収され、外部への連絡手段は断ち切られた。
 この時から、さらに監視員が20人ぐらいに増え、彼女との面会が許可されるのは二人の姪だけとなった。この文章の最初に書かれた老人と監視人たちの話は、ちょうどこの頃の出来事で、老人は70才、フーチンフーの兄のサインバヤル氏だった。兄は通遼市より遠く離れた農村の農民で、妹が自宅軟禁されたことが一切分からなかった。フーチンフーの交渉によって、妹の家に入ることは許されたが、昼から夕方になる前までと、時間が制限された。
 妹の家を離れたサインバヤルもまた公安局に連行される。公安局の局長が、サインバヤルにある文章を見せた。サインバヤルは本を読むの大好きで、多数のモンゴル語の書籍を読んだ人だが、漢語は極簡単な程度しか分からないため、その文章を読めなかった。局長は言った。「これはあなたの妹とその息子が一緒にモンゴル国で、中国に対して行った罪だ」。その量は30ページにも及んだという。そして、兄の立場から妹に対して、「犯罪活動」を中止するよう求められた。
 2004年7月、フーチンフーは息子のチェールと一緒に、モンゴル国へ旅行したことがある。僅か一週間の滞在だったたが、彼女が熱望的に憬れ続けた心の故郷だった。目に見えた全てが美しかった。彼女にとった今まで一番幸せな時だっだかもしれない。
 この一週間の旅行が、「モンゴル国で、中国に対して行った罪」となり、息子もその「犯罪」に関わったという。まさに、「文化大革命」時代のやり方そのものである。
 
フーチンフーの軟禁は続いた
 2010年12月3日、フフホト市で、シンナとウィーレスが拘束され、「蒙古学書店」も閉鎖された。ウィーレスがしばしば外部へ連絡を取っていたが、シンナの消息は完全に途絶えた。
 2010年12月10日、世界中の多くの人々が、ハダの釈放されることに関心をよせ、多くのマスメディアも注目を向けていた。勇気のあるモンゴル人青年たちが、内モンゴル第四刑務所の前にハダを迎えに行き、夕方まで待ち続けたが、ハダは現れなかった。大雪に覆われた一日が静かに終わり、モンゴル人の頭も雪のごとく、真っ白になった。ハダはどこ行ったのか?
 2010年12月15日、フーチンフーが軟禁されて一ヶ月、警察が毎日のように家に押し入り、ゴロツキのような言葉ばかりを使い、家の隅まで散らかしっぱなしにして行く。怒りに燃え続けた結果、ついにフーチンフーは脳出血で倒れた。その後病院に移され手術を受けるが、病院には二十何人もの監視がつき包囲した。
 2011年1月26日、一月半経って退院する時に公安当局からフーチンフーは言われた。自分の「罪」を認め、反省すると同時に、ハダにもその「罪」を承認させる「思想工作」をし、また、妥協するように手紙を書けば、即座に自由になるが、そうでない場合は長期間の判決を与える、と。フーチンフーは直ちに断り、その病院から連行されて行方不明になった。
 この時、ネット上でしばしばハダ一家の家族三人が再会した写真が流れていたが、実際に本人と会った人はその奥さんと息子以外は誰もいなかった。公安当局はハダに「今後、『国家分裂』活動を一切中止するといった内容の誓約書に署名すれば、息子のウィーレスに良い仕事を与え、シンナにも充分な補償をすると同時に『蒙古学書社』も再開できる。また、ハダに大学教授の位を与える」といった提議をしたが一切断られる。ハダは「私は何の罪も犯していない、あなたたちを起訴する」と主張し、かつて抱えていた信念を堅持し続ける。
 
殴打されたフーチンフーの画像がネットに
 ハダの一家も、フーチンフーも行方不明のまま時間が過ぎていった。そして、2011年の9月末頃、顔を殴られたフーチンフーの写真が何枚かネット上で流れた。2011年7月20日付きの写真は殴られた最初の様子で、その後、7月26日と7月30日付けの写真があった。監視役の警察の暴行を受けたことは一目瞭然だ。
 暴行を受けて、額が大きく腫れ上がって、目の周りに血が凝って、紫色になっていた。写真は中国の「百度」ネット経由で各地へ流れた。詳しい状況は知られていないが、概ね以下のような経緯であった。
 フーチンフーは1月26日に退院する際、そのまま市内のあるホテルへ連行され、ホテルでの軟禁が始まった。そして、そのホテルの住所とフーチンフーの状況を一切漏らしてはならないと固く約束した上で、姪の二人だけの面会が許されたが、毎回面会する時に事前に公安局の局長に報告しなければならなかった。そして、アメリカへ留学している息子のチェールへの電話もまだ、公安局長を通してから繋がる。また姪の二人の面会も、チェールの電話で話をする際にも、常に何人もの警察が側で監視していた。
 この暴行について当局の処理としては、暴行を執行した警察官が免職されたと口頭で伝えられただけで済んだ。しかも、その写真を誰かがネット上に流したことは「国家機密」を外部へ漏らしたことになった。姪の二人が毎日のように当局に呼び出され、尋問された。また、フーチンフーの友人シャハールとその息子も容疑者だとされ、三日間に渡って拘禁された。
 暴行を受けた写真を流した「罪」で、また処罰をうける。その後軟禁場所が変わり、姪の二人にも合わせてもらえなくなった。それきりに、フーチンフーの一切の消息が消えた。これを聞いたお兄さんのサインバヤルは再び通遼にやってきて妹を探した。姪と一緒に公安局を訪れた。
 公安局の局長が一枚の紙をもって「あなたの妹の便りだ、ここに署名をすれば、妹に会わせてやろう」と言った。サインバヤルは妹の顔を見ること以外は何も考えなかった。局長の話を信じ、直ちに署名する。姪が後ろにいたが、それを阻止しようとしている間に署名が済んでしまった。
 局長は笑いながら言った。「さぁ、これで、あなたの妹の罪はもう確定できるんだ、皆お家へ帰って連絡を待ってなさい」。それがフーチンフーへの逮捕証だったという。兄弟や家族の誰かが署名すれば、罪が確定され、法的逮捕になるという。
 サインバヤルは妹に会わせてもらえるだろうと思ったが、会えなかった上、妹の逮捕を承認したことになってしまった。老人と姪は呆然となった。時は2011年11月15日だった。
 ハダ一家の三人とフーチンフーの消息が消えたまま今に至るが、今後はどうなるかは誰も分からないのだ。
 
国際社会へ:こんなことが許されるのか?
 この様なことがこの21世紀に中国では公然と行われている。他の国際社会がこんな国と同様に国交を続けて良いものであろうか? 資本力と良心は両立出来ないのか? その資本力と言うのも、中国全土の土地国営化の時に地主を殺傷し盗み取った土地から獲得した資金である。貿易により、この様な資本力から恩恵を被っている国際社会の倫理が問われる。

在日モンゴル人抗議デモのお知らせ 

 2013年8月20日、オルドス市ウーシン旗で牧畜民バヤンバートル氏(享年58)が草地を守るために中国鉄道局第23工事隊の漢人工員によって打ち殺された事件が起こった。しかし、現在事件の解決はおろか、被害者の遺族を含む現地住民数十名が当局に不法に拘束されている。加害者側は、被害者の大切な命の対価をまたも金銭で解決しようとしている。また近年各地でモンゴル人の家畜がトラックにひき殺される事件や土地が不法に占有されることが頻発している。中国において、内モンゴルのモンゴル人の基本的権利および財産は保護されるどころか、重大な侵害および損害を被っている。
 
 このような事態に鑑み、われわれ在日モンゴル人は、中国及び地方政府に対し、基本的権利の侵害に強く抗議すると共にモンゴル人の基本的権利及び財産、土地の保護を強く求めたいと思う。
 われわれには中華人民共和国の公民として政府および当該地方政府に対し、抗議やデモを行う権利は憲法で保障されている。
 したがって、中国の関連法規に基づき、2013年9月8日(日)、13:00から中華人民共和国駐日本国大使館前で抗議デモを実施することになった。この活動は政治的活動ではなく、政府に対してモンゴル人の基本的権利の保護を求める活動であることを重ねて強調したい。正義感のあるモンゴル人の皆様にはふるってご参加をお願いしたい。詳細は追ってお知らせしたいと思う。
 
平成25年8月25日
在日モンゴル人同郷会